私の「ニーベルングの指輪」論、または「ストレス解消としての翻訳」

最近、仕事が難題続きです。続く時は続くもので、次々と降りかかってくる感じ。困るのは、人に相談したりできると、それだけで気が楽になるのですが、人には内緒のことが多いので、職場には言えません。「王様の耳はロバの耳」ではないが、どこかに、私専用の木のうろがあって、そこにしゃべることができるといいのですが。しかし、あの話は、結局森の中に響き渡ってしまうわけで、それじゃ困るのですが。
「このやろー」と思うので、面と向かって文句を言ったり、苦情を言ったりするのですが、喧嘩をしてもどうにもならないので、あとでフォローしたり、気を遣うところが、またまたストレスになってしまいます。
ストレスたまって、しょうがないので、朝起きるなり、「黄昏」の第2幕第1場を訳すと、おお、進む進む、2時間でほぼ終わってしまいました。私自身が、アルベリヒとハーゲンの名を借りて、怒りをぶつけている感じです(笑)。
これが一番、ストレス解消になるというのも困ったものです。とはいえ、基本的に、私は黙っているのが苦手な、その点だけはジークフリート的キャラなので、ハーゲンは、あれだけの陰謀をめぐらしつつ、良くまあ黙っていられるなあ、と変な事に感心してしまいます。良し悪しはともかく、こういう冷徹な人への憧れというのがありますねえ。
私の中では、ハーゲンは昔から一番共感できるキャラなのですが、どうも性格的には全く別の人と言う感じがします。日本で言うと、大久保利通とかそんなキャラで、ジークフリートは、さしずめ坂本竜馬か?私は、どちら付かずの中途半端な人間ですので、どうしようもありません。

それにしても、第2幕は、ここに限らず、わかりやすいドイツ語なので、あまり悩まずに訳せます。そういう意味では「黄昏」全体がそんな気もしますが、なぜでしょうね。「指輪」では、「ラインの黄金」が一番わかりにくい印象があるのですが、周知のように書いた順番が逆なので、だんだん凝ってしまったということですかね?それとも、話に合わせ、言葉もより古代風にしていったということでしょうか?
というのは、前回は、「指輪」を実人生の時間で捉えたのですが、もちろんこれは「神話」ですから、それとは別に、「神話上の時間」があると思います。ざっと考えると、こんな感じでしょうか。
ラインの黄金  ・・・ 神話時代(日本だと、古事記日本書紀とかの神話)
ワルキューレ  ・・・ 古代(万葉集とかの頃か?)
ジークフリート ・・・ 近世
・神々の黄昏   ・・・ 近代(ワーグナーの現代)
いずれにせよ、時間は一方向に流れており、「円環」とか「輪廻」とかの考え方はないと思います。なぜ、わざわざこんな事を言うかというと、物の本を読むと、「指輪」の時間を、そういう風に捉える解釈が見られがちだからです。(この前の新国立劇場ジークフリート」の解説にもそう思える記述がありました)
これは日本だけの特殊現象ではないでしょうか?日本人は無意識に「輪廻」の文化に生きているので、ついどうしてもそうなるということですかね?ちなみに、ワーグナーはいつもそうであるわけではなく、「トリスタン」は「輪廻」な感じがしますし、音楽もはっきりそれを目指していると思います。また「パルジファル」にもそんな所があるので、良く仏教との関連で取り上げられます。ですが、これは仏教の影響というより、この2つの作品は、原作がはっきりと「ケルト」なので、作者がその世界に徹底的に没入したにすぎないような気もします。この点、ワーグナーは、大方のイメージとは違い、原作(の精神)を非常に尊重しており、ここでの原作とは、実は中世叙事詩ではなく、「ケルト伝説としての原トリスタン」のように思えます。
そう考えると、「指輪」の原作「ニーベルングの歌」を、ワーグナーは大幅に改編し、北方神話などを取り入れたように見えながら、実は、その根底に据えたのは、キリスト教一神教的な「直線的な歴史」であるように思えます。その意味で、これは「ケルト神話」の「円環的な歴史」とは決定的に違いますね。
と書いてみたところで、「神々の滅亡」は北欧神話だから、「直線的時間観」はキリスト教ではなく、北欧神話から来ているのでは?という気もしましたが、北欧神話は最終的な成立時期が新しいので、逆に一神教の影響を受けている可能性があるように思えます。(日本神話には直線的も円環的も無いような気がしますが、これは何なのでしょう?)
また、日本特有と書いたのですが、演出を見ると「ラインの黄金」は特に現代的に演出する傾向があります。これは、ワーグナー自身が「物質主義の世の中」を描いているように言ったり、「ニーベルハイムは資本主義のロンドンだ(霧からの連想もある)」とか言っていることから来る解釈でしょうね。現代にもぴったりハマるので、そうしたくなる気持はわかりますが、その誘惑に負けてしまうと、あとが続かないというか辻褄が合わなくなる側面があるように思えます。
そういう意味では、新国のウォーナー演出は、「辻褄」はもう徹底的に放棄したんでしょうね。まあ、それはそれです。
ストレスがたまっているので、思いつくまま書きなぐっているのですが・・・(笑)。この「時間観」は、「指輪」への理解を深いところで規定していると思えます。「円環」として見る解釈だと、この物語の出来事は、すべて「来世で」もう一回繰り返されるんでしょうね。「トリスタン」はそうだと思います。この主人公達は生まれ変わり、永遠に同じドラマが繰り返されるし、今もまた繰り返されているのでしょう。
ですが「指輪」は、そうじゃないと思います。これは、史上一回きりの出来事です。だからこそ、ジークフリートブリュンヒルデは「輝きながら愛し、笑いながら死のう」と言うように思います。「死んだら二度と生まれかえらない」という「一回きり」を信じているからこそ「いま輝きながら愛するんだ」ということかと。
まあ、解釈は色々あっていいのですが、少なくともテクスト上は「指輪」の時間構造を「円環」と読み込む理由は、私には無いような気がいたします。もう一つ指摘すると、人類の生存そのものが環境を破壊して、のっぴきならない状況に追い込まれていくというテーマもありますね。それは「黄昏」の冒頭のノルン達の会話の「ヴォータンが木を切り倒して以降」に明白に現れており、これも「直線的時間観」だと思います。
ところで、この前の新国ジークフリートのパンフレットには、徳島大学の石川栄作先生が寄稿しておられたのですが、この方の本は、ホントにためになります。以前読んだおかげで、目からいろんなウロコが落ちました。「指輪」に関心のある方は、ぜひどうぞ。

『ニーベルンゲンの歌』を読む (講談社学術文庫)

『ニーベルンゲンの歌』を読む (講談社学術文庫)

ジークフリート伝説 ワーグナー『指環』の源流 (講談社学術文庫)

ジークフリート伝説 ワーグナー『指環』の源流 (講談社学術文庫)

この2つの本は、ある程度かぶっている部分があるのですが、思うに、「〜歌を読む」のほうは「ニーベルンゲンの歌」そのものに関心がある方、「ジークフリート伝説」のほうは、ワーグナーの「指輪」に関心がある人向けのような気がします。ちなみに、石川教授は徳島大学で「ジークフリート」をテクストに演習をされていた(当時)ようなので、私が受験生なら、それだけで徳島に行ってしまいそうな気がしますが(笑)。こういう地道な学問的努力は大事ですねえ。
私も食わにゃならんのでサラリーマンなどやっとりますが、まあ仕事で色んな事があると、実はオペラ鑑賞に役立ちますので、それだけを楽しみに、地道に頑張ろうと思います。ああ、しかし、仕事思い出すと、ムシャクシャするなあ(笑)