『指輪』のテーマについて

昨日とうって変わって、突如テーマが重くなります(私らしいですが)。
オペラ対訳プロジェクト上で『神々の黄昏』を訳し終わった頃から、「訳者コメント」を考えていたのですが、なかなかまとまりません。とはいえ、アップしないと何となくモヤーッとした気分なので、こちらに掲載してみようと思います。
『指輪』は神話をベースにしているので、いろいろな解釈が成立すると思いますが、『黄昏』を中心にした私の考えということで・・・。

・古い秩序の破壊
ジークフリート』第3幕から『神々の黄昏』を訳してみると、一つの大きなテーマにぶち当たります。そのテーマとは「硬直した古い社会(神話世界)から新しい社会への脱皮」です。
あくまで私の個人的見解ですが、この壮大な作品の最大のテーマは「社会の変革」(作曲当時は「革命」だったのでしょうが、イメージが暴力的なので、「変革」という言葉を使います)だと思います。アルベリヒの貪欲とヴォータンの罪が作り出し、呪いと契約でがんじがらめになった古い世界の秩序を、ジークフリートブリュンヒルデが崩壊に導き、新しい世界を作るというプロットです。
 しかも、このような変革は自覚的なものでなければ実現できないという認識があるように思います。『ジークフリート』で、若きジークフリートは、アナーキーに旧秩序を破壊していきますが、彼の弱点(ある時点までは強み)は自分のやっていることの意味を全く自覚していないことにあります。ですから、ジークフリートはこの物語の真の主人公にはなり得ません。
自覚する役割はブリュンヒルデに委ねられます。「自覚」によって初めて「古い社会」の変革が実現されます。フィナーレ(『ブリュンヒルデの自己犠牲』)における「私が悟った存在になるために」というブリュンヒルデの台詞こそ、この長い物語の結論だと思います。彼女が、古い世界を変えねばならないと自覚するために、これまでの全ての出来事があったわけです。最終的に古い世界(ヴァルハラ)を壊す彼女こそ『指輪』全体の主人公です。

・「目覚め」の音楽
 ところで、『黄昏』では、ブリュンヒルデが自覚する直前に、ジークフリートも一瞬だけ目覚めます。例によって、ジークフリート自身は完全には自覚していないのですが、「音楽的に」ブリュンヒルデの自覚を導く意味を持っているように思えます。それは「葬送行進曲」の直前の「ブリュンヒルデ・・・聖なる花嫁よ」の部分です。
この時響くハーモニーだけから鳴る「目覚め」のモティーフは、この作品の要所で登場します。最初は『ジークフリート』第3幕の「ブリュンヒルデの目覚め」の場面、2度目は『黄昏』第1幕の冒頭の和音、3度目がこの「ジークフリートの辞世の歌(?)」の直前です。
初回と3度目は本来の形ですが、2度目は半音低い音にしているので薄気味悪く響きます。この『黄昏』の開始を告げる響きは、一見「目覚め」のモティーフのように聴こえますが、そうではなく、それに似せた「悪夢の始まり」にほかなりません。
この悪夢のトーンは『黄昏』全体を貫いています。しかし、最後にジークフリートが目覚めた時、正しい調でようやく回帰します。そういう意味では、『黄昏』は、とてつもなく長い間の悪夢と言えるかも知れません。しかし、そこまで長いスパンの伏線を張った結果、ジークフリートの目覚めのシーンは、台詞としても音楽としても、とても感動的なものになっています。彼は、死ぬ前に一度だけ「目覚め」、「悟り」、その役割をブリュンヒルデに受け継ぐということだと思います。

・『黄昏』における世代間対立
 ブリュンヒルデジークフリートにとっては、ヴォータンは父親、または祖父です。ですから、二人に課せられた役割は、ヴォータン世代によって作られた秩序を変えることにほかなりません。
この「世代間対立」のモティーフは、ジークフリートがヴォータンの槍(過去の「契約」を象徴)を真っ二つにするシーンやミーメとの対立からも容易に読み取れますが、『黄昏』冒頭のノルンの会話では、寓意的に表現されているように思えます。
つまり、最年長の第1のノルン(「過去」の象徴)と第2のノルン(同じく「現在」)から「運命の綱」を受け取る最年少の第3のノルン(同じく「未来」)は、「もう未来に投げる綱はない!」と叫びます。これは、誤解の余地なき印象的な台詞です。私は、これを今の日本で演出するなら、現役世代が子供達に莫大なツケを背負わせている図しか考えられないと思うのですが・・・。
そして綱は切れて、全ては終わります。もう終わってしまっているのに、それを知らないで生活しているジークフリートブリュンヒルデ。こういうふうに始まる舞台だと、なかなかショッキングかつ現実感があるかも知れません。
もっとも、こんな演出が受けるのか?と思ったりもします・・・。とはいえ、どうせ日本でやるなら、これぐらいやったほうがいいように思います。
 いずれにせよ、冒頭にノルンのシーンを置いた意味は、この作品があくまで「社会全体」の問題を扱っていることを示すことにあると思います。

・過去に生きるハーゲン
 この「変革」を阻止する同世代の登場人物もいて、言うまでもなく、それは『黄昏』のハーゲンです。それは、第2幕の冒頭のアルベリヒとハーゲンの対話から分かります。ハーゲンが忠節を誓うのは、「未来」ではなく「過去」です。今さら指輪を手に入れ、世界の権力を得ても無意味だと思えるのですが・・・。また、ハーゲン自身も、自分の存在の空虚さに悩んでいるように思えるので、むしろジークフリートに味方したほうが良いぐらいなのですが、そうしません。過去に縛り付けられて未来が見えない男として、ハーゲンを解釈することができるように思えます。
最近の演出では、ハーゲンがアルベリヒを殺す解釈をよく見ますが、これは上記の趣旨からすると違いますね。ハーゲンは、過去の夢を見ているアルベリヒ世代の側に立脚しているわけですから、どこまでもアルベリヒの支配下にあると考えた方が自然な気がします。重苦しい救いのない音楽には、それが似合っているように思います。ハーゲンは積極的な「悪」というより、むしろ「守旧派」であり「現状維持派」だという解釈が、むしろ素直なように思えます。

・変革を受け入れるヴォータン
 ヴォータンの良さは、自分の作った世界を、最終的には変革されるべきものとして受け入れることにあります。これは、なかなか出来ることではありません。
ジークフリート』第3幕で、いったんは若者への怒りに身を委ねつつも、あとは諦めて引き下がって行くヴォータンの姿というのは、私にとっては、かなり感動的です。こういう人物像を創作した所に、私はワーグナーの劇作家としての凄さを感じます。
確かに、ヴォータンは『ラインの黄金』では悪に手を染め、その後、色々な打開策を図っては失敗するのですが、ここで最終的にたどりついた地点は、「未来のために身を退く」ということです。このことによって、この人物は、あまり例を見ない魅力を獲得しているように思えます。
 
・他のワーグナー後期作品と『指輪』
 他のワーグナーの後期の作品と比べた場合、『指輪』の決定的特徴は、「個人の救い」ではなく「社会の救い」がメインテーマとなっていることにあると思います。これは、ワーグナーが1848年の革命に参加し、亡命する時期に構想されていることから来ているのだと思います。
その後、彼の作品では「社会」は次第に影を潜めていくように思います。『トリスタン』で問題になっているのは、明らかに「個人的な愛と救済」ですし、『マイスタージンガー』では『タンホイザー』における「個人と社会」の問題が改めて提起されますが、その結論は『指輪』と比べるとかなり穏健な「個人と社会との和解」だと思います。『パルジファル』でも「社会」(聖杯騎士の社会)が問題になっていますが、重点が置かれているのは、やはり個人的な救済のように思えます。「個人が救済されないと、社会が救済されない」という結論に至っているように思うのですが、これにはショーペンハウアーからの影響が決定的だったように思えます。
 もちろん『指輪』に戻も「個人の救い」という要素が無いわけではない(特にヴォータン?)のですが、やはり一番大事なテーマは、ブリュンヒルデジークフリートによる「社会の変革」だと思います。フィナーレで、ブリュンヒルデは火を付けて神々の世界を焼き払ってしまうシナリオなので、『指輪』全体に「死」や「破壊」のイメージを見る見方がありますが、私の解釈は違います。それを何よりも雄弁に語っているのは音楽で、音楽が表現しているのは、明らかに「新しい価値観が支配する社会」への希望だと思います。(そのためには「破壊」が必要かも知れませんが)
ですからフィナーレを「夢オチ」みたいに演出する演出があるのですが、これだとメッセージ性が伝わらないのでは?と私は思います。確かに、晩年のワーグナー自身は、世間と妥協せずにはいられなかったのですが、この作品それ自体のメッセージは紛れもなく「個人の内面への退却」ではなく「社会の変革」です。そのメッセージは的確に反映したほうがいいのではないでしょうか?
 そう考えると、『指輪』は「古典」というより(というより「古典」だからこそ?)、かなりアクチュアリティのある作品だと思います。