リヒャルト・ワーグナーとロマン主義的世界観(第1夜)〜トリスタンとイゾルデ〜

ワーグナーの代表的作品といえば、何といっても『トリスタンとイゾルデ』でしょう。

1 降りて来い、愛の夜よ(『トリスタンとイゾルデ』第2幕)
 『トリスタンとイゾルデ』第2幕の二人の逢引きシーンの二重唱。CDとしては先日も紹介したクラウス・フロ−リアン・フォークト氏とジョナサン・ノット指揮のバンベルク響の録音がとても良かったです。フォークト氏の軽めの声は、トリスタン役として、かなりハマっていると思いますし、カミラ・ニュルンドさんのイゾルデも、とてもよい。

ワーグナー:アリア

ワーグナー:アリア

無重力空間にいるように主音に解決しないハーモニー進行がきわめて独創的なので、150年前にはウィーンフィル(=ウィーン国立歌劇場)にさえ「演奏不能」と突き返されてしまったが、今ではもちろん当たり前のように演奏している。本来は、次の「見張り歌」にそのまま続くのだが、この音源はこの曲だけの抜粋なので、オケだけの後奏曲となっている。

Youtubeには、これも以前紹介しましたが、1953年のフルトヴェングラー=フィルハーモニア管のこの箇所がありますので、それをリンクします。次のブランゲーネの歌にそのままつながっています。ブランゲーネ役のメゾ・ソプラノはブランシェ・シーボム。トリスタンはズートハウスで、イゾルデはフラグスタート。これはヒストリカルな名演なのですが、歌唱はちょっと古くさいかも。まさにこの「二重唱」は大時代的かも知れません。ここは、フォークト氏のディスクのほうがいい。しかし、「ブランゲーネの歌」からが本領発揮。そして、リンク先にはありませんが、それに続くトリスタンとイゾルデの会話の場面の音楽が、フルヴェンならではの空恐ろしいまでに濃厚な表現となっているように思います。
http://www.youtube.com/watch?v=B-ImojzMOAs&feature=related

ワーグナー:トリスタンとイゾルデ 全曲

ワーグナー:トリスタンとイゾルデ 全曲

2 ブランゲーネの見張り歌(『トリスタンとイゾルデ』第2幕)これは、ワーグナーの創造した最も革新的な音楽の一つだと思う。最初オーボエで奏でられていた「メロディーらしきもの」が次第に溶解し、あたかも星々の明滅のようになってしまうと、ハープやヴァイオリンの音だけが重力の束縛を失って、野をわたる風のように吹きすぎていく。クラシックな調性感やリズム感を崩壊させたこの音楽は、現代音楽への扉を開いたことはもちろん、もはや「西洋音楽」の枠を超え、東洋の音楽に接近しているとの評もあったと思う。
フルヴェンの録音は、半世紀以上前のヒストリカル演奏なのであまり音質が良くない。したがって、オケの音がやや聞き取りにくい点は残念だが、私は、この場面はやはりこの演奏がいい。見張りを命じられた侍女ブランゲーネが「もうすぐ朝になるわ。逢引はやめなさい」と警告しているのに、恋に夢中になったトリスタンとイゾルデは警告を無視して、密会の現場を目撃されてしまう。
私がこの作品の舞台を初めて見たベルリン・ドイツオペラの東京公演(1992)でのゲッツ・フリードリヒの演出(指揮:イルジー・コウト)は、ここで舞台を真っ暗にして、聴衆の関心が音楽にだけ行くようにしていた。名優ハンナ・シュヴァルツのブランゲーネの歌声も素晴らしく、一生忘れられない体験。

この第2幕の「愛の二重唱」〜「ブランゲーネの見張り歌」と続いて、「ともに死んだほうがいいのかい」と盛り上がっていく所が、やはりワーグナーの神髄であり、彼自身、最も全身全霊を傾けて書いた音楽のように思えます。その背景となっているのは、有名なマティルデ・ヴェーゼンドンクとの恋愛です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mathilde_Wesendonck
上記の記事を読むと、「ドイツの詩人・作家」と紹介されていることに、ちょっとびっくりしました。それにしても、この才色兼備の女性がワーグナーと一時盛り上がり、そして振ってくれたおかげ(?)で、私は『トリスタンとイゾルデ』を聴けると思うと、素直に感謝したくなります。

3 イゾルデの愛の死(『トリスタンとイゾルデ』第3幕) 
 『トリスタンとイゾルデ』の終曲。イゾルデは、トリスタンの遺体を抱き、彼の魂が天に昇っていく幻を見つつ、息を引き取っていく。『ロミオとジュリエット』も思わせるが、この物語においては、それよりもかなり複雑で濃厚な人間関係が描かれる。
ワーグナーの作品というと、多くの人は「ゲルマン(=ドイツ)」のイメージを持つことが多いようだが、実は「アーサー王伝説」を素材としていることが多いので、むしろ「ケルト的」あるいは「古代ヨーロッパ」的な作品が多いように思える。
ワーグナーは、死の数か月前、妻であるコジマ・ワーグナーとの会話において、ヴェネツィアのサンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ聖堂で鑑賞したティチィアーノの『聖母被昇天』のイメージを、このシーンのイゾルデと重ね合わせている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Tizian_041.jpg
クライマックスの直前で、同じ音型が繰り返されるたびに半音ずつ上昇する感じが、確かに「聖母マリアが天に引き上げられていく」イメージと重なり合うように思う。ワーグナーの書いた最もすぐれた音楽の一つだろう。

「愛の死」は、「オペラ対訳プロジェクト」上の力作「7人のイゾルデが歌う愛の死」をご参照ください。
http://www31.atwiki.jp/oper/pages/1830.html
このページのおかげで、往年の名ソプラノの名演を聴くことができます。私のオススメは、やはりキルステン・フラグスタートでしょうか。1936年も、52年も、どちらもよいです。フラグスタート以外の歌手もそれぞれよいですが、私は特にアストリッド・ヴァルナイの明晰なディクションが捨てがたいです。
この際なので、キルステン・フラグスタートについて・・・。

キルステン・フラグスタート Kirsten Flagstad
ノルウェー生まれの、20世紀を代表するワーグナー・ソプラノ歌手。
下記は、ノルウェーフラグスタート博物館のウェブサイトの、フォトアルバムページです。
http://www.kirsten-flagstad.no/English/Photoalbum/tabid/4267/language/nb-NO/Default.aspx
やはり、ブリュンヒルデヴァルキューレ姿がわかりやすいですね。最下段の、中央と一番右のフォトは、盃を持っているので、イゾルデでしょう。中段の中央には、有名なジークリンデ役のブロマイドが。・・・と思っていたら、ノルウェー語のページには、ちゃんと何の役か記載してありました。
http://www.kirsten-flagstad.no/KirstenFlagstadmuseet/Fotoalbum/tabid/4015/language/nb-NO/Default.aspx
やはりワーグナーが多いですが、たまに意外な役があってびっくりします。
ところで、ここにはないのですが、フラグスタートのメトのブロマイドのポーズの中には、たぶん古代ギリシャの有名なレリーフ「沈思のアテナ」を狙ったと思われるものがあります。だとすると、北欧神話の女戦士「ヴァルキューレ」じゃないじゃんと思ってしまいますが(笑)。
一見いい加減なようですが、考えてみると、『ニーベルングの指輪』という作品自体が、ギリシャ悲劇、北欧神話アーサー王伝説などを自在に取り込みながら、オリジナルな作品世界を創っているのだから、それでいいのかも知れません。