「栄誉」と「妄想」で読むトリスタン

 『トリスタン』について考えたことをまとめてみました。(まるで文学部の学生のレポート風ですが)
 『トリスタン』を改めて読んでみると、イゾルデ、マルケ王、ブランゲーネ、クルヴェナールの世界観は最初から最後まで変化がありません。ただ、イゾルデは初めから「愛の死の世界」に生きているのに対して、他の3人は最後までそれとは無縁な「世間的価値観」に生きているという違いがあります。
これに対して、トリスタンだけは劇中に「世間的価値観」を脱け出て「愛の死の世界」に行ってしまいます。ただ、ぎりぎりの所までトリスタンは「世間的価値観」を脱け出せないでいて、それを象徴する特徴的な単語は「栄誉」(die Ehre)でしょう。この言葉は、第1幕でトリスタンが毒杯をあおる決定的な箇所で出て来ます。
“Tristans Ehre ---höchste Treu'!”(トリスタンの栄誉とは・・・この上なき誠実でした!)
また、薬を飲んだ直後には、こう言います。
„Was träumte mir von Tristans Ehre?“( トリスタンの栄誉を、なぜ夢見たんだろう?)
「栄誉」という言葉が「騎士」としてのトリスタンのポリシーになっていることが分かります。(なお、ワーグナーはこの「栄誉」という概念を、カルデロン(スペインの劇作家)を読んで発想したらしいですのが、これはトリスタンというキャラの確立に十分寄与していると思います。)
もう一つ気になる単語は「妄想(妄念)」(der Wahn、動詞だとwähnen)です。ただ、日本語の「妄想」というのは少し狭い意味なので、「誤ってそう思い込む」すなわち「誤解する」という意味もあることを念頭に置くと良いかも知れません。
この単語は頻出しますが、トリスタンとイゾルデの側は「一般社会」を「妄想」と言っています。逆に、二人以外は、「愛の死の世界」のことを「妄想」と言っていて、常識的にはこちらのほうが正しい使用法でしょう。
例えば、クルヴェナール「Der Welt holdester Wahn, wie ist's um dich getan!」(この世で最もやさしき妄想が、なにゆえあなた様を破滅させたのですか?)(第3幕)。マルケ王「der Wahn häufte die Not」(妄想が苦難を積み増したのだ)(第3幕)
これに対して、トリスタンとイゾルデは、第2幕で何度も世間一般の考えを「妄想」だと語りますが、とりわけ「愛の二重唱」の決定的な部分で繰り返します。例えば、トリスタン「zu täuschendem Wahn entgegengestellt」(欺くような妄想の前に引きずり出されようとも)〜(中略)〜二人「Nie-wieder-Erwachens wahnlos hold bewusster Wunsch.」(そして決して再び目覚めることなき、妄念を離れた やさしく目ざめた願い)
 それにしても、この単語はワーグナーのお気に入りの単語で、「マイスタージンガー」第3幕の冒頭のザックスのアリアでも「Wahn! Wahn! Überall Wahn! 」(迷いだ!迷いだ!至る所、迷いだ!)と言っています。(一般に「迷い」と訳すので、これで良いのですが、「誤解だ!」という意味に近いかも知れません)
 また、自分の家までWahnfried(妄想が安らぐ場所)と名付けているのですが、これらのケースでは「妄想」を世間的価値観で使用しています。したがって、このことは、『トリスタン』の「愛の死こそが本当の世界で、世間的価値観は妄想」と一見矛盾しているようにも思えます。
 しかし、ワーグナーにとっての「Wahn」とは、「この世界を誤って認識している」ということなのだと思います。ショーペンハウアー的というか仏教的なイメージなので、これは「迷妄」と訳すべきかも知れません。そう考えると、『トリスタン』では、まったくトリスタン達の感情が理解できないマルケ王やブランゲーネは「迷妄」の世界を超えられないのであり、『マイスタージンガー』では、ザックスはそうした感情を自覚した上で断念しているので、一段高い境地にいるのでしょう。ちなみに、このあたりは『生に近づく道は二つある。死を通って行く道こそ天才的な道なんだ』(『魔の山』からの不正確な引用)というトーマス・マンの文章を思い起こさせます。マンがワーグナーから受けた影響の深さが良くわかります。
 『トリスタン』では、トリスタン・イゾルデと、その他の登場人物とは、ずうっと平行線をたどり続けて和解しません。イゾルデは「死ぬしかない」と思い定めているので、ある意味目的を果たしてしまうのですが、トリスタンは「栄誉」に帰れないままに死んでしまうという点に、この主人公の悲劇的な部分があると思います。
従って、本来ストーリーとしてはモヤッとしたものが残るはずなのですが、音楽的には最後にものすごいカタルシスが来ますから、有無を言わさず納得させてしまうという点が面白い点です。