トリスタン物語の「愛の薬」

トリスタン物語では、2人を最終的に結びつける「愛の薬」が重要な役割を果たします。
ワーグナー以前のゴットフリートの叙事詩なども重要な役割を果たしているのは同じですが、決定的な違いは、先行する作品では「愛の薬」体験が「偶然」だったのに対して、ワーグナーでは、それが「必然」となっているということです。
岩波文庫の『トリスタン・イズー物語』を読むと、航海中にブランゲーネが留守にしている間、トリスタンとイゾルデの二人が「喉が渇いたので何か持ってきて」と侍女に言い付けると、その愚かな侍女は「めんどくさいなあ。これでいいよね」と、なんと「愛の薬」を二人に持ってきてしまいます。ブランゲーネが帰ってきてみると、二人はすでにラブラブなので、「ああ、なんてこと!」と船べりから海に向かって叫ぶというシチュエーションです。
ワーグナーの設定は全然ちがいます。ですから、トーマス・マンが「愛の薬はただの水でも良かったのだ」というのは、本当に的確な批評です。二人とも「死を覚悟して飲む」ということに、唯一にして最大の意味があるのですから・・・。
また、もうひとつ重要な違いは、先行する作品では、その後コーンウォールに着くまでに、トリスタンとイゾルデは愛の時間を心ゆくまで楽しんだことになっているのですが、ワーグナーでは、すぐ引き離されてしまうことです。ワーグナー作品では、この二人はずっとプラトニックな関係を続けて来て、初めて(そして一度きり)結ばれたのが、第2幕の二重唱のシーンのように思えます。
ただ、共通点もあります。それは、トリスタンもイゾルデも、自分たちの関係を「不倫」とは思っていないということです。(ただし、先行作品では、二人は駆け落ちしてしまうので、だんだん「罪の意識」を感じてくる設定なのですが)
ゾルデからすれば、トリスタンは彼女の「運命の人」であり、マルケ王よりも先に結ばれているということなのでしょう。トリスタンも、そのイゾルデの気持ちを受け、マルケの「説明責任を果たせ!」という至極もっともな質問にも「あなたにはわかりません」と「ゼロ回答」をしています。ワーグナーの台本は、世俗的な意味での罪というのは問題にしていません。それは、すごくはっきりしているように思えます。
私は見ていないのですが、映画版「トリスタンとイゾルデ」のあらすじやコメントを見ると、イゾルデはマルケ王に対して罪の意識を感じる設定になっているようです。だとすると、ワーグナーよりも、原作に近いですね。むしろ、ワーグナーの台本が「音楽の力」を媒介にして初めて成立する設定なのかもしれません。
そう考えてみると、ワーグナー版イゾルデのキャラも面白いかもしれません。『魔笛』の最後に、パミーナを讃えて「夜も死も怖れぬ女」という言葉があるのですが、これを訳しながら、少しイゾルデを連想しました。