クンドリー目線から見た「救済者への救済」〜パルジファル公演(4)

パルジファルの最後のセリフ「救済者への救済」Erlösung dem Erlöserは、非常に謎めいた言葉です。
これは私が初めて「パルジファル」をCDで聴いて、CDについていた渡辺護氏の訳を読んだときからの疑問でしたが、実はこれは翻訳の問題ではないかと考え、「オペラ対訳プロジェクト」でパルジファルを訳したとき、私はこれを「救い主が救われた」と訳しています。
http://www31.atwiki.jp/oper/pages/170.html(このページの最下段です)
理屈から言えば、すでに「救い主」であるパルジファルは、この劇の中で「救われている」わけですから、私はもちろん基本的には自分の解釈で問題はないと考えています。
ただ、その一方で、音楽とともにこのセリフが歌われるとき、なんか願望のように聞こえるというのは、拭いようのない事実です。そこから、ネイティブであるドイツ人もまた、この言葉を「願望」のように受け取っているのではないか、それはそれで正しいとも思います。
そう考えると、もうホントに文字通り「救済者への救済」もしくは「救い主への救い」とだけ訳すのが正確かな?とも思えてきます。今手元にないのですが、白水社の大型本パルジファル池上純一氏の訳も、確かそのような中性的な訳だったように思います。
とはいえ、やはり一つの立場を打ち出すことも意義のあることかと考え、色々考えた挙句、ある意味個性的な「救い主が救われた」という訳となっています。ですから「救済者に救済を」と考える余地も十分にあると、今は思っています。
さて、あらためてこの言葉を「救い主に救いを!」と受け取ると、どのような風景が見えてくるのか、ということですが、今回の「訳者コメント(後篇)」の視点からすると、これは他の誰よりもクンドリーの祈りではないか?ということに思い当たりました。
この考えはもちろん、訳者コメントで書いた私の想像の妥当性を前提としてのことですが、そうだとしたら、クンドリーが十字架に向かうイエスに抱いた最初の祈りこそ「救い主(ここではイエス)に救いを」だったはずです。第3幕最後の合唱では、そのクンドリーの祈りがリフレインとして何度も反復され、そのかつて自らが発した祈りの中で、クンドリーは苦しみの連鎖からようやく解かれると考えることは、あながち的外れでもないような気がしてきました。やや綺麗すぎる話にも思えますが、自分の解釈の傍証となっているようにも思えて記載しました。
せっかくなので、最後の合唱を動画対訳で聴いてみました。1時間18分45秒あたりからです。オペラトーク飯守泰次郎氏が指摘していた、最後のソの音も確認してみました。この1951年のバイロイトでは、その点があまりよく分からないですが、もっと音質がいい音源であっても、この最後の音楽はホールの大空間でこそ真価を発揮するように作られているように思えます。2年前の東京文化会館でもそう感じたのですが、この音楽が再び飯守氏の解釈のもと、今回は新国立劇場でどのように聴こえるのか非常に楽しみです。