「幼な子のあなたが母の胸に」における聖母マリアとイエス〜パルジファル公演(5)

オペラ対訳プロジェクトで、第2幕でクンドリーが歌う「幼な子のあなたが母の胸に」の動画対訳が公開されています。
http://oper.at.webry.info/201409/article_8.html
ソプラノは、レジーヌ・クレスパン。演奏は、ジョルジュ・プレートル指揮のフランス国立放送管弦楽団です。
この演奏は初めて聴きましたが、クリスパンが実にみずみずしい歌唱を聴かせてくれます。オケも繊細で、日頃CD等で聞きなれているドイツのオケの演奏とは一味異なった良さがあり、この曲の素晴らしさを再認識させてくれます。
この曲については、以前もこのブログで音楽面も含めて詳しく取り上げているのですが、今回は初めて気づいたことを書きます。
あらためて考えてみると、ワーグナー作品において、親子の情というものが取り上げられていることは、きわめて少ないです。そもそも、彼の作品の登場人物は、ほとんど両親または片親を失っているのですが、片親がいるにせよ、親子の愛情が語られるシーンは少ないです。
その例外と言うべきものが、(あくまで回想にせよ)このパルジファルと母親のケースと、『指輪』のブリュンヒルデとヴォータンではないかと思います。これ以外の主要人物で片親との絡みがあるのは、『オランダ人』のゼンタとダーラント、『マイスタージンガー』のエーファとポーグナーですが、何か妙によそよそしい関係で、あまり親子の愛情が感じられません。あとは、『指輪』のハーゲンとアルベリヒですが、これは憎しみの心を受け継ぐような関係で、愛情どころではないです。
あとは、敢えて言えば、他ならぬ『パルジファル』のティトゥレルとアンフォルタス、『ローエングリン』のパルチヴァール(パルジファル)とローエングリンが親子ですが、どうもこの聖杯騎士における親子というのは、たぶん血のつながった親子じゃないんだろうな、と私は思います。また、ティトゥレルとアンフォルタスの関係というのは、その内実はむしろハーゲンとアルベリヒの関係に似ているような気もします。『指輪』のヴォータンとジークムントの関係もこれに近いかも知れません。自分ができなかったことを息子に果たさせようとするスポ根ドラマ的父子関係と言えるでしょう。
その点、トリスタンやジークフリートは、逆に両親がいないことをバネとして生きている印象がありますが、親のみならず育ての親からも真の愛情を受けなかったことが、どことなく性格的な歪みとなって現れているようにも思えます。
その点、パルジファルが母親から愛情を受けて育ったことは、彼が「救済者」となるにあたって、実に大きな意味を持っているように思えます。ブリュンヒルデも「救う者」としての役割を与えられていることを考えると、ワーグナーは、人から愛情を受けた者こそ人を救えると考えて、この「幼な子」のエピソードを入れているような気がします。
そうして考えてみると、子供に愛情を注ぐ主体は実の親でなくてもいいわけで、『タンホイザー』のエリーザベトには両親がいなくて、伯父のヘルマン方伯に育てらていますが、ヘルマンはエリーザベトを愛情を注いで育てている雰囲気が感じられるので、最後にタンホイザーをエリーザベトが救うという展開は納得が行く気がします。(逆に、その点が、『オランダ人』で、ゼンタがオランダ人を救うストーリーにしっくり来ない理由の一因かも知れません)
「幼な子のあなたが母の胸に」という日本語タイトルは名訳だと思う(Ich sah das Kind an seiner Mutter Brust なので、直訳だと「子どもが母の胸に抱かれているのを見た」)のですが、それは「幼な子イエス」という連想から、パルジファルと母親の関係が、イエス聖母マリアの関係をなぞったものだということが読み取れるからです。この曲は、いわば音で描く聖画と言ってもいいかも知れません。歌の前半では、目に入れても痛くない我が子を育てる母親の姿が、歌の後半では、そのわが子がどこかにいなくなった母親の苦しみが、それぞれ「聖母子」と「ピエタ」に対応するかのように描かれています。パルジファルは「救い主」なのですから、こう言っても言い過ぎではないと思います。
この歌の中で誰しも気になるのは、そんな母親の愛情を受けながらも、パルジファルが家出してしまうことです。しかし、これもよく考えてみると、福音書におけるイエスと同じで、家を出たイエスは、母が近くにいるのに「母とは誰のことか?」と言ったりします。神以外に父母しかいないのだ、ということなのですが、そのあたり厳格な宗教は民衆にはついていけない所があり、だからこそ聖母マリア崇拝になるのでしょうが、この作品における救い主パルジファルは、母のことを思い出し、悔悟の念に苦しみます。それは極めて人間的な反応で共感できるのですが、そこにとどまっていては他人を救う救済者にはなれない、ということで、このあとさらに大きな転回が待っています。
そう考えると、このドラマは、ややこしい面は多々あるものの、やはり良く人間が突き当たる問題を掘り下げて作られているとの念を新たにします。