聖なるものとマゾヒズム〜パルジファル対話篇(1)

「オペラ対訳プロジェクト」の管理人さんが、字幕付きで1951年バイロイトの『パルジファル』第2幕・第3幕の動画対訳をアップされました。字幕は私の翻訳というのはおこがましいですが、これを機に、第2幕・第3幕については大幅改訂しました。自分としては、だいぶ読みやすくなったと思います。それに加え、9月には『パルジファル』の実演もあることですし、動画を活用して、いわば『訳者コメント』の続きを書いてみることにしました。だらだらと書いてしまう癖があるので、3名の「対話篇」という形にしてみました。「トマス」は私のことですが、「ヨハン」は最近ワーグナーを聴き始めた方、「アンナ」は比較的以前からワーグナーを聴いていた女性という設定で、書いてみました。なお、今回の話題は、すべて「クンドリーの口づけ」以降のシーンについてです。やはり、この部分のセリフを理解が、この作品の理解のうえで大事なことのように思えます。
(『パルジファル第2幕』http://www31.atwiki.jp/oper/pages/2317.html
通常の対訳もぜひご参照ください→http://www31.atwiki.jp/oper/pages/169.html

ヨハン)第2幕のクンドリーの口づけ(46分15秒)の意味というのは、パルジファルにとって「性的な欲望」を呼び起こすということでしょうか?パルジファルはそれに対する嫌悪から、聖なるものを想起するという解釈がオーソドックスな解釈だと思いますが。
トマス)いや、私はそうではないと思います。パルジファルにとっては、クンドリーはこの瞬間、パルジファルにとって真剣な「恋びと」になっているのだと思います。しかし、彼は、このとき「聖なるもの」への憧れが自分の中にあることに目覚めます。「聖なるもの」というのは誤解を招く言い方なので、「自分の中のほんとう」と言い直した方がいいかも知れません。その「ほんとう」とは「ひとりで悩む」のではなく「人と共に悩むこと」にあると直感したというのがパルジファルというキャラクターの特異な点です。
ヨハン)『トリスタン』のほうがわかりやすいですね。人が恋した時に感じる感情が素直に出ているように思えます。パルジファルのように「欲望」と「純愛」とが切り分けられていないですから。
トマス)そこが重要な点ですね。でも、おそらく、あらゆる恋愛において、その両者を切り分けることはできないだろうと思います。一般的な『パルジファル』の解説では、それを善と悪に簡単に切り分けてしまっている場合が多いように思えてなりません。
アンナ)ワーグナーの台本にそう思わせる点があるのですかね。
トマス)そうですね。実際、そう思える点は多々あります。ただし、音楽を聴いていると、全くそう思えないのです。もっとも、音楽において、これが善、これが悪と切り分けて作曲することは非常に難しい。ですから、そもそも原理的にそうなりにくいと思うのですが、とりわけ『パルジファル』の音楽は全てを包み込んでいく感じがします。
アンナ)でも、第2幕冒頭の「クリングゾルの(魔の城の)動機」(冒頭0分18秒)は、かなり悪い感じがしますよ。
ヨハン)確かに、わかりやすい悪さです(笑)
トマス)ちょっと話がそれますが、『指輪』には、こういう『悪いモティーフ』がけっこういっぱい登場しますね。『アルベリヒの呪い』とか『ニーベルングの破壊工作』とか・・・。きわめつけは減5度の『ハーゲンの動機』で、よくこんな悪そうなモティーフばっかり作ったな、と感心しますね。ただ、パルジファルは、そういう印象を与える音楽は少ない。すべてがいわば「善悪の彼岸」にあるような音楽です。
ヨハン)『善悪の彼岸』・・・。ニーチェは、パルジファルにカンカンに怒っていますが・・・。
トマス)それこそ不幸な誤解ですね。作品そのものというより、まったく個人的なすれ違いなのだと私は思います。そして、そのせいで『パルジファル』への誤解もさらに深まっているのだと思います。
ヨハン)どうしてニーチェは誤解したんでしょう?
トマス)一概には言えませんが、彼が『パルジファル』を聴いていないことは大きかったと思います。1882年の初演には参加していないので、その後実演を聴く機会はなかったのではないでしょうか。字面と譜面だけを見て「カトリックにぬかずいた」と感じてしまった可能性もあります。ただ、そう感じさせてしまう要素があることは否定できません。この作品を「欲望を断念して聖なる世界に生きなさい」というメッセージに解釈することは容易です。でも、そうではないと私は思います。
ヨハン)なぜ、そう言えるのですか?
トマス)この場面で、パルジファルはクンドリーに性的欲望を抱きます。これは確かです。でも、そのとき同時に、彼はそれと同等いやそれ以上の恋愛感情を抱きます。でも、それがきっかけとなって、彼は「聖なるもの」への憧れを抱きます。これは、一瞬のうちに起こる出来事ですが、「聖なるもの」への憧れの強度のほうがパルジファルにとっては強い。だからこそ、パルジファルはクンドリーを第2幕では拒否するのです。その過程は、きちんと第2幕の後半に描かれています。これは「究極の選択」なのであり、彼は決して、クンドリーに単なる性的欲望だけを感じているわけではありません。さすがにそんなに一面的じゃないですよ。それが、ワーグナー作品の深さです。実は、ここは多くの人がちゃんとそれを理解して聴いていると思います。ただし、説明しようとすると、けっこう難しい。
ヨハン)でも、クンドリーの愛撫を受ける場面のパルジファルのセリフは、思いっきり「性的対象」としてのクンドリーを拒否しているように見えますが。
トマス)そうでしょうか? 単にエロティックな欲望の対象としてしか見なしていないなら、むしろ素直に受け入れられる面があるような気がします。これは、やはり恋愛感情の二面性なんだと思います。どうですかね?
ヨハン)言われてみると、パルジファルの困りかたというのは、ハンパじゃないですね。これはホントの恋なのかもしれません。
トマス)通常ならもう少し時間をおいて現れるであろう「ホントの恋」の両極が、ここで一気に現れて、それでパルジファルは戸惑うのだと思います。
アンナ)その意見には同感で、この両名のやり取りを聴いていると、クンドリーのほうも「ほんとうに愛されている自分」というのをすごく意識しているとしか思えないんですよ。私にはそんな感じがします。
トマス)パルジファルの「アンフォルタス!」(47分27秒)の叫び以降、クンドリーは驚きながらも、すごく生き生きしていきます。この推移を見るだけでも、これはすごく真剣な恋愛なのだと私は思います。クンドリーには、誰かにやらされているような気配は微塵もありません。というより、初めは「またくだらない男の相手をするのか」と思っていたところが、パルジファルの「真剣な感じ方」を見て、真剣な恋愛感情に変わるのです。「彼女の驚きは情熱的な賛美へと移りゆき」というト書きはそれを物語っています。そして、極めつけは「だとすれば、あたしの口づけこそ、あなたをあまねく世界を見晴るかす存在にしたわけね?」(64分55秒)というセリフです。これは凄まじいセリフで、ここから作者の思考のあやを解きほぐすことができるように思えます。
アンナ)確かに、このシーンというのは、なんか心をくすぐられるようなものを感じますね。でも、最後に「行ってくれ、いまわしい人!」と言われては、誰でも怒ると思います。
トマス)そうだと思います。パルジファルも悩んでいるけれど、まだ彼は、クンドリーの痛みをほんとうには感じていない。世界をさすらってきたクンドリーに比べて、パルジファルは若いのです。そうであるからこそ、彼は「花の乙女たちの住む世界」をクリングゾルもろとも若気の至りで滅ぼしてしまうのかも知れません。そこからパルジファルの長い「迷いの道」が始まり、そのことは第3幕の前奏曲に表現されています。
ヨハン)クンドリーの痛みは、どこから来るのでしょうか。彼女は、自ら救われることを拒否しているように思えます。
トマス)間違っているかも知れませんが、私の意見では、これはおそらく「けがれてしまった自分が許せない」という感情だと思います。その「許せない」という感情は、自尊心が高いがゆえに起こるのだと思います。
アンナ)「それと引き換えに、あたしには永遠の罰をください!あたしの傷を絶対に癒したりしないで!」(65分40秒)というセリフにゾッとします。
ヨハン)マゾヒスティックですね。彼女は結局救われるのでしょうか。
トマス)大事なことは「私は救われない」と彼女自身が「思い込んでいる」ところにあります。「絶望」とは、「本来の自分」への理想が高くて、しかしそこに到達することができないと思う痛切な感情です。しかし、彼女を支えているのも自尊心なのであって、それを失えば、即座に完全な狂気に陥ってしまうかも知れません。
アンナ)さきほどのセリフのだいぶ前になりますが、クンドリーの歌のテンポがものすごく遅くなって「そう、あたしは見たのよ、あのお方を・・・そして・・・笑っちゃったの・・・!(イエスの眼差しが)途端に、あたしに突き刺さった・・・あの眼差しが!」(57分55秒)という箇所も印象的ですね。これは一体何を意味しているのでしょうか?
トマス)もしかしたら、これ自体、彼女の「妄想」あるいは「幻覚」なのかも知れません。しかし、イエスの姿は、彼女自身の「聖なるもの」「本来性」を示していることは間違いないと思います。「あのお方(イエス)の呪いが・・・ああ、あたしに力をくれるの」(67分30秒)と彼女は叫びます。おそらく、そこに彼女の生きる意味があるのであり、それをアンフォルタスに見出したと思ったとき、彼女は歓喜しますが、アンフォルタスは彼女の自尊心を打ち砕くほど強い人間ではなかった。パルジファルが彼女を拒否し、彼女の自尊心を打ち砕いたとき、はじめて救いへの道が開けます。
ヨハン)パルジファルにはなぜそれができるのでしょう。
トマス)パルジファルはクンドリーに「神を穢す人よ、ぼくはあなたにも救いを与えます。」(65分58秒。ファンファーレのような「パルジファルのモチーフ」とともに)と言いますが、この段階では、まだできません。それは、第3幕の前半で、パルジファルがその間の回顧を通して初めて可能になります。それができるのは、彼が「聖なるもの」に向けて絶望しないからです。
アンナ)そのパルジファルに比べると、アンフォルタスは「絶望」しきっていますね。
トマス)クンドリーとアンフォルタスとは鏡のような存在です。アンフォルタスもまた、自尊心ゆえに絶望に陥っている。しかも、父親(ティトゥレル)や騎士団が代表する「世間的な聖なるもの」に押しつぶされて、自分の中の「聖なるもの」を探求することはできない。あるいは逆に、そうした「世間的な良識」こそが、アンフォルタスの中にその反対物としての「性的欲望」を生み出し、それが「自分の中の聖なるもの」である「イエス」から罰を受けたいという倒錯・・・マゾヒズムにつながっているのかもしれません。
ヨハン)反対にパルジファルは「愚か者」であるからこそ、そのマゾヒズムに陥らないのかも知れません。「愚か者」であることには、そういう意味があるのですね。
アンナ)クンドリーとアンフォルタスは、イエス=キリストを通してつながっている感じがします。でも、クンドリーはあまりはっきりと「イエス」に言及しませんね。「彼」としか言いません。この翻訳では「あのお方」となっているので、少しわかりやすくなっていると思います。
トマス)クンドリーが「イエス=あのお方」に言及する箇所では、代名詞の「彼」が大文字になっています。それがはっきりわかる場面は、前出の「そう、あたしは見たのよ、あのお方を(Ich sah – Ihn – Ihn –)」(57分55秒)の「Ihn(Erの目的形)」と「あのお方よ(Er ... Er ...)」(67分16秒)です。
ヨハン)クンドリーもアンフォルタスも、互いを通して本当に恋しているのは、イエス=キリスト、ひいては「自分自身の本来の姿」ということなのですかね。
トマス)アンフォルタスのクンドリーへの想いは恋愛感情のようにとらえていいと思います。トリスタン第3幕の「続き」ですから。しかし、クンドリーが恋しているのは「イエス」です。そして、その都度イエスの姿を誰かに仮託している。彼女にとってイエスというのは「本来の自分の姿」でもありますから、ナルシスティックな態度と言えば言えます。ですが、あらゆる人間関係というのは、結局、自己の側からとらえることしかできないのかも知れません。他者との関係がうまくできないのではなくて、自分との関係がうまくできないのだと思います。
ヨハン)『トリスタンとイゾルデ』でも、両者の関係によくわからないところがありました。『パルジファル』では、その「わからない点」が前面に出てきて、私にはよけいにわからなくなってきます(笑)
トマス)あえて簡単に言うと『トリスタン』は「恋愛そのもの」がテーマで、『パルジファル』は「恋愛を通した自分さがし」がテーマだと思います。「自分さがし」というと、「おとな」にケッと嘲られそうですが、そういう人であってもやはり自分にとっての真実を探さずには生きていられないでしょう。もちろん、その感じ方の強度は人によって異なるでしょうが。『ちがう!ちがうぞ!傷口からなんかじゃない。』(48分46秒)とアンフォルタスの苦悩に気づいた直後にパルジファルは歌いますが、これは必ずしも恋愛体験とか性的欲望の話に絡めなくとも、「自分」というもののあり方について考える瞬間をとらえているのだと思います。この「自分の中のほんとう」に目覚める瞬間をワーグナーの音楽は、かつてない強度で表現しているのだと思います。