クプファー氏の演出について(3)〜新国立劇場「パルジファル」第3幕

ついに2回目の上演の第3幕。
これだけ散々聴いてきて、この幕で終わりかと思うと、一人ため息が出てしまう、世の人々には理解しようもないワーグナーマニアの心理の切なさです。
さて、第3幕でも前奏曲が始まると同時に幕が上がり、第2幕冒頭でクリングゾルが槍を持ってうつぶせに倒れていたところに、今度はパルジファルが倒れています。前奏曲の「迷い」を表すような音楽に合わせて起き上がり、後方に進むと、そこにシャツだけの青年がいるのですが、シャツの青年はパルジファルに水を与え、パルジファルは逆にコートを脱ぎ棄てて青年に与える。そこに、さらに後方にいた僧侶3人の1人が進み出て、パルジファルに自らの袈裟を与えます。ここで長い迷いにもようやく出口が見つかったのか、パルジファルは僧侶に手を取られて、階段を降りて消えていきます。
このあと、冬の大地(を思わせる白をLEDフロアが映しています)に横たわっているクンドリーをグルネマンツが介抱すると、クンドリーは打って変わって真摯なムードで登場します。
その後に、パルジファルが登場するのですが、感動的だったのは、パルジファルの素姓が明かされるところの音階の下降モチーフ。響きを豊かに増していくと、やがて緩やかな大河のように落下していく。実に素晴らしかったです。
パルジファルを救済者として受け入れるシーンは、非常にオーソドックスな表現でした。クンドリーは泉に水を汲みに行き、グルネマンツはパルジファルの靴を脱がせます。その足にクンドリーは香油を塗り、自らの髪で軽くふき取ります。その後も両名は静かに見つめ合っていて、その様子をグルネマンツが驚きながら、やや恥ずかしそうに(?)見つめているのが、実に芸の細かい所で素晴らしいものを感じました。フランツ氏は相変わらず粗末な衣装で顔つきも柔和ですし、ヘルリツィウスさんも「世界名作劇場」にでも出て来そうな(?)絵に書いた少女のようで、これが第2幕のクンドリーと同一人物か?と疑うほど。その和やかな安らぎの中、二人が額をつけ合うと、やがて聖金曜日の音楽となります。
聖金曜日の音楽では、パネルの床が、新緑を思わせる鮮やかなグリーンと白に輝くのが、何と言っても素晴らしい効果を上げています。音楽の進行に伴って、背後のスクリーンには、青空と虹も映し出されますが、舞台装置はそれ以上のことは語らず、全てを歌手の演技と音楽に委ねている印象。今日の飯守氏は、落ち着いたテンポで、じっくりと歌と楽器を歌わせており、ふくよかなサウンドも素晴らしく、たいへん見事な音楽となっていました。
6日の演奏では、最初に若干、歌とオケがそろっておらず、もどかしく感じたのですが、今回はそれもなし。グルネマンツのトムリンソン氏が、実に慈愛を込めて、救済者をめぐる難解なセリフの箇所を歌っていたところに聞き惚れました。
また、オケがとりわけ素晴らしかったのは、クライマックスでヴァイオリンが幅広くメロディーを歌う直前。ウインドソロ(オーボエとフルート)が、付点音符のリズムを交互に歌いかわしながら、上昇する音程を5度から6度へと広げていく箇所。ここが、劇場のクリアな音響とも相まって、直接、脳内に溶けていくように美しかったです。
(なお、このウインドソロの付点音符リズムが、ついには第1ヴァイオリンのオクターブ上昇に変化していくのですが、これは、第1幕の舞台転換の音楽の「苦悩の叫び」直前にあるオクターブ上昇の再現であり、変容でもあることに、今回、「舞台転換の音楽」を分析したことで、初めて気づきました。また、このモチーフは、『タンホイザー』序曲の第1主題の後にすぐ引き続き出てくるモチーフでもあります。)
切なさの中にも憧憬を込めて歌われるこのような短いモチーフの変容ぶりこそ、晩年のワーグナーのエッセンスとも言い得るように思えるのですが、今日11日の演奏では、その意味が、飯守氏のタクトのもとで十全に開示されたように思えました。その後に解き放たれたように伸びやかにメロディーを歌うヴァイオリンも、もちろん素晴らしかったです。
さて、第3幕のおどろおどろしい舞台転換では、騎士たちがティトゥレルの棺とともに現れ、アンフォルタスが再び「メッサー」の上に横たわって現れます。彼は、苦悩の限りを込めて歌いますが、私の印象では第1幕と同じで、なんとなく元気すぎる(?)ような感じがします。そのため、個人的には、いま一つ切迫性を感じず、その後騎士たちが暴動のように詰め寄る所も、もうひとつ乗り切らないように感じました。これは5日も同じことを感じました。エギルス・シリンス氏自身は良い歌唱なのですが、私のイメージからすると、どうも「強すぎる」アンフォルタスのような気も。
それと関係しているのかどうか、パルジファルが槍を差し出して登場するところも、やや安易な感じがしないでもないです。
とはいえ、演出を弁護すると、やはりこの作品のラストは難しいな、という気はします。予定調和的だと安っぽく見えてしまうし、ハッピーエンドに捉えないと今度はシニカルに見えてしまうし、と実に難しいところです。
とはいえ、今回の演出は、事前のインタビューなどでは、もっと懐疑的な結末なのかなと思っていたのですが、思った以上にハッピーエンドでした。それは、実は私の解釈に合っているのですが、そう思うと逆に懐疑的に見てしまうという・・・。まったく贅沢なものです。
大詰めでは、パルジファルは自らの袈裟を分かってクンドリーとグルネマンツに与え、さらには騎士たちにも共に来るよう呼びかけて、「光の道」を奥まで歩んで行くという設定でした。三人の顔には、あまり迷いは感じられず、確信を込めて、その道を歩いて行くという感じでした。
パルジファルの誘いを受けてついて行く騎士達は半信半疑なのですが、良く見ると、ついて行く騎士は一部で、あとは迷っている男、絶望したようにうつむいている男など様々で、この結末が決して全ての人にとって受け入れられる状況ではないという設定かと感じました。その意味では、これが飯守氏がオペラトークで語っていた「大きなクエスチョンマーク」ということかなと思いました。
エンディングには、一つ大きな解釈の変更があって、それはアンフォルタスが死んでしまうということです。これはクプファー氏が、プログラムの中で書いていた通りなのですが、重大な変更だと思います。その理由もプログラムの文章にあるのですが、それは「アンフォルタスは死を望んでいるのですから、彼の望み通り死を迎えます」ということで、これは読んだ瞬間に「えっ?」とびっくりしました。逆に、クンドリーは、生きる結末になっているので、ワーグナーが設定したクンドリーとアンフォルタスの結末を真逆にした形になっています。
私の感想としては、「アンフォルタスが望み通り死ぬという解釈では、トリスタンと同じになるのでは?」という点です。「オペラ対訳プロジェクト」の最初の訳者コメント(訳者コメント前篇)で書いたように、第3幕のトリスタンを救うというのがワーグナーの当初のテーマであったので、これは正直、余り同意しかねる変更かなと思いました。
一方、クンドリーを生かすというのは分かるような気がします。ワーグナー自身の考えでは、クンドリーの死というのは、輪廻からの解放としての死として正当化されるのですが、それは舞台では伝わりにくいので、むしろ生きているほうが演出としては分かりやすいのかなと思うので、彼女については今回のような解釈は良いかと思います。
でも、どうせこの解釈ならば「アンフォルタスも生に帰してあげて、4人で救われるべきじゃないか?」と、「生」の大盤振る舞い(?)をしてあげたくなります。その点が私にとっては大きなクエスチョン(笑)となって、残ったかなという感じでした。
とはいうものの、クプファー氏の演出は、必要以上に奇をてらわず、舞台のデザインはきわめて洗練されており、照明も美しく、LEDパネルの技術力も素晴らしく(笑)、何よりも演者への信頼感に立ったとても良い演出だったと思います。最初のコンセプトに統一感があり、余計なことをしない真っ当なワーグナーであり、当然のことながら、読み込みの深さも一流です。かなり印象に残る好舞台でした。
11日は全体を通して多くの点で5日より良かったものの、若干残念だったのは、パルジファルのフランツ氏の第3幕最後の歌唱がやや精彩を欠いたことで、これはご本人的にもやや残念そうな感じでした。あと、合唱、特に男声合唱が全体に5日より調子がイマイチで、特に第3幕の舞台転換の後の合唱が乱れ気味だったことです。舞台転換のあのリフトに乗りながら、というのは、なかなか大変なこととは思いますが・・・。しかし、女声合唱も交えて、最後の「救済者に救済を」は良かったです。
明日14日の千秋楽は、さらに見事なる舞台であれかしと祈る所です。
全体的に、言葉では言い表せぬほど、本当に素晴らしいワーグナーでした。
日本に居ながらにして、これだけ素晴らしい舞台に接することができて、携わられた方々に心から感謝です。