音楽を文章で表現できるか?(トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』より)

トーマス・マンの最初の長編小説『ブッデンブローク家の人びと』は、彼の一家のいわば自伝的物語なのですが、初めは力強い商人の家庭だった一家が次第に没落していく過程を描いています。しかし、その没落は芸術と鋭く対置されています。一見、音楽という芸術に対する不信のように見えるのですが、文学もまた芸術作品なので、きわめてアンヴィヴァレントな芸術に対する信仰のようにも思えます。
その最後の「第11部」では、ブッデンブローク家の末裔であるハノー少年(17歳ぐらいでしょうか?)が、自作のピアノ作品を弾く場面を描いています。この前の部分では、彼が学校で散々先生にいじめられる場面を描いているのですが、それは省略です。
このピアノ作品の場面はいわば「叙事詩的叙情」です。私は、これはマンがワーグナーから得たものだと思います。ワーグナーが「歌詞と音楽」で表現したものを彼は文章だけでやろうと思い、驚くべきことにそれを達成しているように思えます。
この次の章では、チフスという病気の進行が淡々と語られるのですが、その病気がハノーのものだとは語られません。これもまた「叙事詩的叙情」です。ものすごく斬新です。
以下「ハノーの幻想曲」の訳出です。到底、うまい訳にはなっていない気がしますが・・・。ただ、最後のほうの段落(赤字にしたところ)、これは本当にいいですねえ・・・。突き放しつつも、それを上回る愛情を感じます。

ハノーはサロンに取り残された。細長いテラスにつながるガラス戸へと歩み寄り、しばらく雨に濡れそぼった庭を眺めていた。
だが突如何かにはじかれたように後ずさりし、クリーム色のカーテンをひっつかむように閉じた。黄色い闇に包まれた空間を横切ってハノーはピアノに向かった。
再びピアノのそばに立ち止まった少年の瞳は当てどもなく虚空に向かったが、やがて瞳の奥の陰翳はますます濃くなりヴェールがかかったようにぼんやりとしていった・・・。
腰を下ろしたハノーは自作の幻想曲の一つを弾きはじめた。

弾いたのは極めて単純なモティーフだった。それは、取るに足らない無のようなもの、まだ存在していないメロディーの破片、1小節半の音型にすぎなかった。
どこにそんな力が潜んでいたのかと思うような激しさで、ハノーはそのモティーフをバスの単音で響かせた。その音はトランペットの合奏のように、これから始まることの出発点となる素材を命令口調で告げたが、一体それが何を意味するのかはまだ誰にも分からなかった。
しかし、それを高音に移し替え、いぶし銀のような和音を付けて反復したとき、そのモティーフが実は一つの和声進行から成り立っていることが突然明らかになった。それは、憧れと苦悩に満ちた転調・・・ある調から別の調への転落だったのだ。
息せき切った子供じみた着想。しかし、提示され奏でられる際の決然とした精確さと荘厳さのゆえに、それは奇妙なほど神秘的で、意味深い相貌をまとっていた。
それに続く劇的な絶え間なきシンコペーション。そこには何かを激しく求めつつも迷路をたどっている人間の叫び声があった・・・あたかも一つの魂が、今しがた耳にしたことへの不安におののきつつも、到底黙っていることはできずに、問いかけては嘆き、息を詰まらせては渇望し、約束の地を目指しながら次々と新たな和音を試すかのように。
シンコペーションはますます激しくなっていった。取りとめもない急速な三連符に取り巻かれながら恐怖の叫びを上げたが、次第に内面に沈潜し、ついに一つの形を取って手を結び合いながらメロディーとなった瞬間、熱烈な祈りを歌う木管のコラールが浮上した。激しいままだが、あたかも神にぬかずくように。
それまで休みなく押し寄せてきたもの・・・波のように打ち寄せ、自らと同時に人をも迷わせていたものは、いまや口をふさがれ征服された。紛うことなき単純なリズムに乗って、子供のような悔恨の祈りの合唱が響き始める・・・。その合唱は平穏な教会旋法で終止する。続いてのフェルマータ・・・。静寂・・・。
聴くがいい。そのとき突然ぞっとするほど静かに現れるのは、あのいぶし銀の音色だった・・・あの最初のモティーフ、子供じみた着想、愚かしくも神秘的な音型、甘く悩ましい転調が再び登場したのだ。
大混乱が始まった。ファンファーレのようなアクセント、荒々しくも決然とした表現に支配される絶え間なき興奮・・・。いったい何が始まったのだ?何を準備しているのだ?開戦を告げるようなホルンの響き。徴兵と戦力集中。決然としたリズムが組み合わされ新たな音型が現れる。それは大胆な即興曲・・・。嵐のように進撃していく挑戦的な狩猟歌・・・。
しかし、その歌には陽気さが欠けていた。心の奥深く膨れ上がった絶望的な傲慢さに響きかけるシグナルは同時に不安の叫びでもあり、奇妙に歪められたハーモニーに混ざって何度も聞こえるのは人を苦悩させてやまない甘美なモティーフ・・・冒頭に聞こえた謎めいたモティーフだった。
止むことのない変転が始まる。しかし、その本当の意味は誰にも分からなかった。音色とリズムとハーモニーとの冒険的な連鎖が聴こえてきたが、その連なりを支配していたのはハノーではなかった。それは彼の指から形づくられた時、初めて予告なく体験されるものだったのだ。
ハノーは鍵盤の上に少し前かがみになって座っていた。口をぽかんと開け、遠くをじっと見つめ、柔らかにカールする茶色の髪がこめかみを覆っていた。何が起こったのだ?何を感じたのだ?恐ろしい障害を乗り越えたのか?龍を打ち殺し、岩をよじ登り、嵐を突破し、炎を乗り越えたのか?いいや・・・その響きの中には、やはり冒頭のモティーフが、どぎつい笑い声のように、信じられない幸福を約束するかのように織り込まれていた。あの無価値な構築物が、あの別の調への転落が。まるで絶え間なく新しい暴力的緊張関係へと投げ込まれていくかのように。
オクターブにまたがるプレリュードのような楽句がそれに続き、叫びながら消えていくと、その瞬間、奔流が流れ込んできた。休むことなき緩慢な上昇が、粗野で抵抗し難い憧れが、半音階的に坂道を切り開いていくと、それは突然、人を驚かす刺激的で情欲に耽るようなピアニッシモに、まるで足もとから大地が抜き去られるように中断された。
遠いこだまのように、ぬかずくような悔恨の祈りの和音が聴こえた。それもつかの間、すぐに激しく上昇する不協和音が滝のように落下し、かたまりながら前転後転し、よじ登ったかと思えば沈み込み、いわく言いがたい目標に向けて再度必死の思いで身をよじっていく。その目標は来るはずだった・・・。来るはずだった・・・この瞬間。窮迫の喘ぎが耐え難いまでに高まる、この恐ろしい頂点で・・・。
ついにそれは来た。もう先延ばしすることはできなかった。憧れの悶えをこれ以上長く続けてはいられなかった。それは来た。カーテンが引きちぎられるように、扉が突き破られるように、茨の垣根に穴が開くように、火の壁が倒壊するかのように・・・。
解消が、解決が、充足が、完全な満足感がきた。有頂天の歓声を上げながら全ては協和音へとほぐれ、甘い憧れにみちたリタルダンドを続けながら別の協和音へと移行しつつ落下していった・・・あの最初のモティーフへと!
お祭り騒ぎが始まった。勝利の宴、羽目を外した無礼講の中でモティーフ音型はあらゆるニュアンスを帯びた音色を誇らしげにまとい、全てのオクターブ上に流れ出し、号泣してはトレモロに打ち震えて消えて行き、歌い、歓喜し、むせび泣き、オーケストラのような音、つんざくような轟音、鈴のような響き、玉のように転がる音色、泡立つような音色を華麗に身にまといながら、勝ち誇るように近づいて来た・・・。
そこには、何か鈍感で残忍なものがあったが、それと同時に禁欲的で宗教的なものもあった。それは「無」を狂信的に礼賛する信仰と自己放棄だった。あの短い1小節半のメロディー、あの子供じみた和声の着想にまとわりつく「無」への狂信的な礼賛だった。
メロディーが利用され味わい尽くされる・・・その度外れた飽き足らないやり方の中には、あたかも悪徳に類したものがあった。シニカルに絶望し切ったもの、快楽と没落への意志のようなものがそこにはあり、このメロディーから最後の一滴までしゃぶり尽くそうという欲望の中で、ようやく全てが枯渇し、吐き気と倦怠感に達し、しまいにはとうとう放埒の限りを尽くした後の疲労の中で、静かな短調のアルペッジョがこぼれ落ちて、一音上昇して長調に解決したかと思うと、憂鬱なためらいに満ちて消え去っていった・・・。
ハノーはなお一瞬の間、あごを胸に、手を膝に置いて座っていたが、やがて立ち上がってピアノを閉じた。顔はひどく真っ青で、膝の力が抜けてガクガクしていた。だが両眼だけは煌々と輝いていた。隣室に行き、寝椅子の上で横になると長い間微動だにもせずに横たわっていた。
夜遅く夕食を取ると、母親とチェスを一局指したが、勝負はつかなかった。大事な宿題を仕上げるために明日は5時半に起きようと決めていたにもかかわらず、真夜中を過ぎてもまだハノーは、自室の燭台の脇にあるオルガンに向かい、もう音を出すことは許されない時間だったので、頭の中だけで曲を弾いた。
ハノー少年の日々の生活から切り取ったある一日とは、こうした一日だった。

私は、この着想のもとは『トリスタン前奏曲』だと思います。ただ、それにこだわることなく自由に「文学上の音楽」というのを構築したことに、この文章の面白みがあると思います。これに比肩するのはプルースト失われた時を求めて』の「ヴァントゥイユのソナタ」でしょう。これも面白いのですが、私はフランス語がわからないので翻訳でしか味わえないのが残念です。