『マイスタージンガー』(5)〜ザックスの最後のモノローグ

ヨハン)今日は、『マイスタージンガー』の最後をしめくくるザックスのモノローグのアップですね。
トマス)先週の公演の前から取りかかっていたのですが、間に合わなかったもので・・・。やはり『マイスタージンガー』のセリフって、ダントツにムズカシイですね。わかりやすい日本語にするのが、すごく大変です。
このリンク先のページのだいぶ下のほうです。http://www31.atwiki.jp/oper/pages/145.html

SACHS <ザックス>
schreitet auf Walther zu und fasst ihn bedeutungsvoll bei der Hand (ヴァルターのもとへ歩み寄り、心を込めて彼の手をとる)
Verachtet mir die Meister nicht 名匠たちをさげすまず、
und ehrt mir ihre Kunst! 彼らの芸術を讃えるのです!
Was ihnen hoch zum Lobe spricht, 世に高く評価される彼らの芸術は、
fiel reichlich Euch zur Gunst! あなたにも豊かな恵みを与えたのですから!
Nicht Euren Ahnen, noch so wert, あなたの出自がいかに高かろうとも、
nicht Eurem Wappen, Speer noch Schwert, その出自や紋章、槍や剣のおかげでしょうか・・・
dass Ihr ein Dichter seid, 今日、あなたが詩人として、
ein Meister Euch gefreit, ひとりの名匠の祝福を受け、
dem dankt Ihr heut' Eu'r höchstes Glück. 最高の幸せを手にしたことは・・・。
Drum, denkt mit Dank Ihr d'ran zurück, 感謝の気持ちで、もう一度考え直してください。
wie kann die Kunst wohl unwert sein, こんなにも高い評価を受けてきた芸術が、
die solche Preise schliesset ein? どうして無価値なはずがありましょうか?
Dass uns're Meister sie gepflegt, 我らの先人たちが、大切に守ってきたことがあります。
grad' recht nach ihrer Art, それは、まさに芸術の作法に正しく従い、
nach ihrem Sinne treu gehegt, 芸術の意義を片時たりとも忘れず、
das hat sie echt bewahrt. 純粋なままに保つことでした。
Blieb sie nicht adlig wie zur Zeit, その甲斐あって、宮廷や領主が保護していた時代の
wo Höf' und Fürsten sie geweiht, 高貴さは失われてしまいましたが、
im Drang der schlimmen Jahr' 悪しき年月の圧迫を受けても、
blieb sie doch deutsch und wahr; この芸術は、ドイツ的かつ真実であり続けたのです。
und wär' sie anders nicht geglückt, 四方からの脅威を受けつつも、
als wie, wo alles drängt und drückt, 繁栄をことほぎ、
Ihr seht, wie hoch sie blieb in Ehr'! 至上の栄誉に包まれてきたのです。
Was wollt Ihr von den Meistern mehr? このうえ、名匠たちに何を望むというのでしょう?
Habt acht! Uns dräuen üble Streich'! 気をつけなさい!今こそ不吉な事態が迫っています!
Zerfällt erst deutsches Volk und Reich, もしドイツの民衆と国とが滅んでしまえば、
in falscher welscher Majestät まやかしの異国の支配の下で、
kein Fürst bald mehr sein Volk versteht; 領主の誰一人として、民衆を理解しなくなります・・・
und welschen Dunst mit welschem Tand そして、異国の無価値ながらくたを、
sie pflanzen uns in deutsches Land. 我らがドイツの国土に植えつけようとします。
Was deutsch und echt, wüsst' keiner mehr, ドイツの名匠の栄誉のうちに芸術が生き続けなければ、
lebt's nicht in deutscher Meister Ehr'. ドイツ的な純粋なものを知る人は、一人もいなくなるでしょう。
Drum sag' ich Euch: ですから、私はあなたに、こう告げるのです・・・。
ehrt Eure deutschen Meister, 『ドイツの名匠たちを讃えるのです!
dann bannt Ihr gute Geister! そうすれば善なる精神を心にとどめられるのですから!
Und gebt Ihr ihrem Wirken Gunst, 名匠たちの仕事を愛し続けるならば、
zerging' in Dunst たとえ、まやかしの雲に覆われて、
das Heil'ge Röm'sche Reich, 神聖ローマ帝国が滅びても、
uns bliebe gleich ドイツの芸術は決して滅びません。
die heil'ge deutsche Kunst! 聖なるドイツの芸術は!』

アンナ)わりとわかりやすくなっていると思いますよ。ワーグナーは、このザックスのモノローグを通して、ドイツ音楽へのオマージュを高らかに謳い上げている感じです。
ヨハン)正直、盛んに「ドイツ」「ドイツ」と繰り返すのが、ぼくみたいな特にワーグナーファンではないリスナーにとっては、ちょっと引いてしまうような・・・。
トマス)そうですね。それは、至極真っ当な感想だと思います。
アンナ)逆に私なんかは「ドイツ音楽どっぷり」(笑)なリスナーなので、「ドイツの芸術」があって良かったと思ってしまいます。
トマス)やはり、この作品は「ドイツ」というのを前面に押し出したワーグナーの唯一のオペラですよね。その意味では、どうしても物議を醸す点があります。
アンナ)特に、「気をつけなさい!」以降の6行が、いつも「国粋主義的」として問題になります。ワーグナー自身も、入れたままにするか削除するか悩んだとありました。
トマス)音楽の雰囲気がいきなり変わりますから、どう聞いても「付け足した」のが分かりますよね。
ヨハン)でも、こうやって読んでみると、そんなにヘンなことを言っているわけでもないような?ドイツを「日本」と置き換えたって、わりと健全な感覚では?
トマス)唯一問題のあるのは、in falscher welscher Majestät (まやかしの異国の支配の下で)のwelschという形容詞ですね。一般的にはロマンス語圏の国、つまりフランスやイタリアのことを指します。1870年のプロシャ=フランス戦争の前ですから、やはりワーグナーの念頭にはそのことがあったのでしょう。
アンナ)だから、戦争後には削除するかしまいか悩んだんでしょうね。
トマス)そう思います。ただ、最終的に削除しなかったのは、そういう背景があったにせよ、意味合いとしてはそんなにヘンではないと感じたからではないかと、私は推測します。いずれにせよ「偏狭な愛国心」ではないと思います。
ヨハン)「神聖ローマ帝国が滅びても」というのは、有名な一句ですが、その後のドイツ帝国を考えると、なんだか予言的な感じがします。
アンナ)「国は滅びても芸術は滅びない」と言うんですよね。
トマス)ある意味、「世界市民的感覚」ですよね。私は、ここで表明されている考え方こそ、さっきの「国粋主義的」かどうかという問題などより、数段大事なポイントだと思います。
アンナ)これは日本人にはない発想ですよね。というか、ドイツ人以外のどの国民にもなかった発想かも。
トマス)そのような問題意識を生涯を通して探求したのが、トーマス・マンだと思います。第一次世界大戦中に書かれた『非政治的人間の考察』の中で、彼は「ドイツにとって大事なのは文化なのだ。フランスのような文明ではない」ということを執拗に書きつづります。私の理解では、彼は「ドイツ人というのは精神のコスモポリタンなのだ」と主張しているのです。敗戦後、マンはそのような心性の「良い側面」と「危うい側面」を俎上に載せて、『ドイツとドイツ人』のような講演をします。
ヨハン)『ドイツとドイツ人』は、ぼくも読みました。岩波文庫に翻訳がありますので、手軽に読めます。
アンナ)そう考えると、『マイスタージンガー』の締めくくりは、トーマス・マンの「元ネタ」ですね。「政治よりも芸術が大事。物質的繁栄よりも精神の高貴さが大事」みたいな歌詞なんでしょうかね。
トマス)そうですね。同意したくなる一方、ある意味で「危うい」感じがしてしまうんですよ。
ヨハン)「ドイツ的な純粋なもの」という歌詞なんかもそうですね。でも、音楽を聴いていると、ぼくも感動してしまいます(笑)
アンナ)そういわれてみるとたしかに、「気をつけなさい!」という箇所よりも、こちらのほうがよっぽど「問題的」かと思います。
トマス)ただ、一つだけ忘れてならないのは、ワーグナーがこの作品を書いた時代というのは、前述のようにドイツ帝国の成立前だったということです。「神聖ローマ帝国が滅びた」のは、この頃から約70年前のナポレオン戦争の頃で、この頃までずっとフランスの国力はドイツよりも上だったことを考える必要があります。
アンナ)う〜む。今日は、かなり堅い話になってしまいましたね。
トマス)『マイスタージンガー』は、やはり政治的な話が避けて通れなくなってしまう唯一の作品ではないですかね。
アンナ)「ドイツ」というのがこんなに強調されるのも、たぶんこの作品だけですね。
ヨハン)でも、この作品の印象が強烈なので、ワーグナーというと、すごく「ドイツ」な感じがしてしまいます。
トマス)やはり、そこがこの人のすごい所なんでしょうね。歌詞だけならともかく、音楽でもって、有無を言わさず「ドイツ性」を遺憾なく表現するのが、この最終シーンでしょう。ちなみに、一つだけ気が付いたのですが、最後のほうの、Drum sag' ich Euch:って、完全に福音書イエス・キリストの口ぶりそのものですね。「まことに、汝らに告げん」みたいな感じ。やはり『マタイ』を訳してみて良かったなと思います。
ヨハン)ううむ。そんな大それたことをするワーグナーって、あきれるほどすごいですね。
アンナ)ほんとですね。「強烈な自負心」という感じがします。
トマス)でも、やはりそれだけの人なんですよ。ほめたりけなしたり、どっちなんだって感じですが(笑)。
アンナ)さて、今回をもって、いったん『マイスタージンガー』はお休みということですかね?
トマス)はい。それにしても『マイスタージンガー』の歌詞って、難しかった・・・。ワーグナーの他の作品って、逆に「分かりやすい」と私は思います(苦笑)。だからというわけでもないですが、次回は、ちょっとエネルギーを貯めてから、『ラインの黄金』に取り組んでみたいと思っております。