『マイスタージンガー』(3)〜第3幕「迷い(狂気)のモノローグ」に見るワーグナーの芸術観

アンナ)第3幕の頭にあるザックスの「迷いのモノローグ」は、単独でもよく取り上げられますね。
トマス)オペ対に、ここだけアップしているので、ご覧ください。http://www31.atwiki.jp/oper/pages/143.html#Wahn
あと、Youtubeも。http://www.youtube.com/watch?v=SIvYnsnxkb8
ヨーゼフ・グラインドルのザックスですが、この方は、往年の『リング』で、ハーゲンやファフナーなど「悪役」で鳴らしましたが、ザックスもとてもよいです。
ただ、一部音質が乱れて、ちょっと聞き苦しいと思うので、やはり前回に引き続きトーマス・スチュアートがいいと思います。
http://www.youtube.com/watch?v=Jb4Qm1Aj4jY
この「迷い」の原語は、Wahnですが、これはワーグナーの愛用語です。「妄想」「迷妄」という意味があるので、「迷い」ももちろん誤りではありませんが、このセリフの趣旨から言うと「狂気」がやはり一番ピタッとくると思います。

Wahn! Wahn! Überall Wahn! 狂気だ!狂気!どこもかしこも狂気だ!
Wohin ich forschend blick' 私は書物を紐解いてみる。
in Stadt- und Weltchronik, 街の年代誌を調べたり、世界の歴史を紐解いて、
den Grund mir aufzufinden, その理由を見つけようとする。
warum gar bis aufs Blut どうして人は流血の惨事に至ってまでも、
die Leut' sich quälen und schinden 互いに苦しめ合おうとするのだろう・・・
in unnütz toller Wut! どうして無意味な熱狂に駆られるのだろう!?
Hat keiner Lohn noch Dank davon: どんな報いがある?誰が感謝する?
in Flucht geschlagen, wähnt er zu jagen. 敗けているくせに、勝ったとうぬぼれている者どもには、
Hört nicht sein eigen Schmerzgekreisch, 自分の苦痛の叫びさえ耳に入らない。
wenn er sich wühlt ins eig'ne Fleisch, 自分の肉を掘り返して、
wähnt Lust sich zu erzeigen. それをまるで楽しいことのように思っているのだ。
Wer gibt den Namen an? なんとも名状しがたいことだ・・・。
kräftig (力強く)
‘s ist halt der alte Wahn, だが、しかたがあるまい。昔からの狂気なのだ・・・。
ohn' den nichts mag geschehen, それがなければ、何もはじまらない。
‘s mag gehen oder stehen! 去っていくにせよ、街にとどまるにせよ!
Steht's wo im Lauf, どうやら狂気は、まだこの街にとどまり、
er schläft nur neue Kraft sich an; 眠って新たな力を蓄えているようだ。
gleich wacht er auf, しかし、目覚めたときには、気づくだろう!
dann schaut, wer ihn bemeistern kann! ここに狂気を制御しうる男がいることを!
Wie friedsam treuer Sitten ああ・・・なんと平和に、美風にあふれ、
getrost in Tat und Werk, 日々の勤めを平穏に果たしながら、
liegt nicht in Deutschlands Mitten ドイツの中心に、佇んでいることか。
mein liebes Nürenberg! 我が愛するニュルンベルク市は!
Er blickt mit freudiger Begeisterung ruhig vor sich hin (ザックスは心を喜びに満たし、おだやかな視線を前に向ける)
Doch eines Abends spat, だが、あんな夜遅くでは、
ein Unglück zu verhüten, 災いを避けようとしても、
bei jugendheissen Gemüten, 血気にはやる若者達の心に、
ein Mann weiss sich nicht Rat; どう忠告していいのか分かろうはずもない。
ein Schuster in seinem Laden 一介の靴屋が、店の中で、
zieht an des Wahnes Faden. 狂気の糸を通そうとした。
Wie bald auf Gassen und Strassen ところがすぐに、大通りにも、路地にも、
fängt der da an zu rasen! 狂気の嵐が吹き荒れだした!
Mann, Weib, Gesell und Kind 男も女も、若者も子供も、
fällt sich da an wie toll und blind; むやみやたらに殴り合い、
und will's der Wahn gesegnen, 狂気に魅入られたかのように、
nun muss es Prügel regnen, 殴り合いの雨あられが降ってきた。
mit Hieben, Stoss' und Dreschen ぶったり、蹴ったり、どついたり、
den Wutesbrand zu löschen. ああでもせねば、怒りの炎が鎮まらないかのように。
Gott weiss, wie das geschah? - 神よ・・・どうしてあんなことに?
Ein Kobold half wohl da! いたずらな妖精の仕業でしょうか!?
Ein Glühwurm fand sein Weibchen nicht; オスのホタルが、連れ合いを見つけられなかったので、
der hat den Schaden angericht't. あんな災厄を引き起こしたのでしょうか?
Der Flieder war's: 思い出されるのは・・・ニワトコの香り・・・
Johannisnacht. - 聖ヨハネの前夜祭・・・。
Nun aber kam Johannistag! - だが今日こそは聖ヨハネの祝祭!
Jetzt schau'n wir, wie Hans Sachs es macht, さあ、ご覧いただこう。
dass er den Wahn fein lenken kann, このハンス・ザックスが、狂気を巧みに操って、
ein edler' Werk zu tun. 気高い仕事を果たすさまを。
Denn lässt er uns nicht ruh'n なぜならば、ここニュルンベルクですら
selbst hier in Nürenberg, 狂気が我らを捉えて離さぬのなら、
so sei's um solche Werk', いかに、みごとな仕事を果たすにも、
die selten vor gemeinen Dingen 世俗のことはいささか離れて、
und nie ohn' ein'gen Wahn gelingen. 狂気の助けを借りる必要もあるのだから。

ヨハン)「狂気のモノローグ」というと、自らが狂っているようにも思えるので、誤解しやすいですね。
トマス)だから、ほんとうは「狂気についてのモノローグ」ですね。
アンナ)ザックスが言うところの「狂気」とは何でしょう。
トマス)直接的には第2幕終結の、あの「殴り合い」を指しています。「人々はなぜいがみあい、なぜ平和にならないのか?皆、狂っているのではないか?」というわけですが、ザックスが「大人」なのは、一方で「狂気がなければ何もはじまらない」と、バランスを取ることです。
ヨハン)「狂気」というと大仰ですが、芸術創造に必要な「インスピレーション」という意味でもあるのですかね。だからこそ、最後の締めくくりで「いささか狂気がなくては成功できまい」というわけですかね。
アンナ)ワーグナーバイロイトの私邸をWahnfriedと名付けています。「狂気の安らぐところ」という意味と理解していましたが、Wahnを積極的にも捉えているようにも思えます。
トマス)その点は、白水社三宅幸夫氏・池上純一氏の訳でも解説されています。確かに、このモノローグを聴くと、そんな感じがします。
ヨハン)冒頭に、バス・トロンボーンで、第3幕前奏曲の最初のモチーフが現れますね。
トマス)ここ、楽譜を見ると、「とてもやわらかに」との指定のほかに更に注記があり、「バス・トロンボーン奏者が、スラーで滑らかに吹けない場合は、むしろホルン奏者が吹くように」との指示があります。面白いです。
ヨハン)これは「諦念の動機」というのですかね?
アンナ)そうですね。でも「あきらめ」というより、ザックスその人を表現するようなモチーフとも思えます。これが調を変えて、何度も反復されるのが、いかにもワーグナーっぽい感じです。第2幕の「殴り合い」を振り返って、いったんシーンと静まると、ヘ長調で荘重なマーチが開始されますが、これはニュルンベルクへの讃歌ですね。でも、また「チャカチャカチャカ」(笑)みたいな音楽になります。
トマス)「殴り合い」というのは、ドイツでは実際に「宗教戦争」が絶えなかったわけですから、非常に実感がこもっているわけです。
アンナ)「狂気」というのも、その後のナチスのこととか考えると、考えさせられます・・・。でも、ナチスというかヒトラーって、これを見て、自分たちのやっていることは「狂気」そのものだと思わなかったんですかね?すごく不思議です。
ヨハン)そのあと「神よ、どうしてこんなことに?」とつぶやいた後に、弦楽合奏が幅広く上昇するような穏やかな旋律を歌い、そこにハープが分散和音を奏でるのは印象的ですね。(スチュアート動画の4分36秒)
トマス)ここもスコアを見てみると、4小節にわたって、ホ長調ドミナントの「9の和音」が続くんですね。5小節目でホ長調のトニックにたどりつくのですが、それもやっぱり「9の和音」なところが魅力的です。ここに限らず、ワーグナーのハーモニーには、すごく独自性がありますね。ここからさらに目まぐるしく転調して、「今日はヨハネ祭の当日!」で、ハ長調に帰ります。
アンナ)そのあと、序曲の「ソ・ド・ミ・ソ〜」のモチーフや、例の「リラの香り」モチーフが出てきたりと、にぎやかですね。前回の「いい意味で気楽に作った」というのが、よく分かります。
トマス)この歌全体のテーマは、やはり最後の「世俗のことはいささか離れて、狂気の助けを借りる必要もあるのだから」というところです。芸術創造とは正気と狂気のバランスなのだ、というこのザックスのセリフは、作者自身の芸術を指していますから、自己言及的ともいえます。
ヨハン)その自己言及性は、このオペラの色々な箇所に仕掛けられているような気がしますね。
トマス)「引用」という技法をうまく使っていると思います。
アンナ)もともと、ライトモチーフを多用することからして、ワーグナーの音楽は、「引用」のオンパレードとも言えそうですが。
トマス)そうですね。ただし「ライトモチーフ」を、ワーグナーは通常、きわめて音楽的な流れに沿って組み入れているので、あまり無理やりな感じがないです。これは後期作品になればなるほど顕著ですね。『ラインゴルト』はまだ「無理やり感」が残っていますが、『黄昏』は徹底的に音楽的に構築されていると思います。
ヨハン)それに比べると、『マイスタージンガー』は、やはり「気楽」なんですかね?
トマス)「いい意味で」ですよ。『マイスタージンガー』は、ライトモチーフがほぼ全面的に「パロディー」として機能している、ワーグナーで唯一の例ではないかと思います。「音楽的」というよりは「文学的」ですね。
アンナ)以前の作品からの引用もありますね。第3幕の終景が始まる直前の「五重唱」は、最初にエーファが歌うモチーフが「ブリュンヒルデの愛のモチーフ」を思わせますし、その直前には「トリスタン」の音楽がそのまま出てきます。これはモーツァルトが、ドンジョヴァンニでフィガロの音楽を引用したのと似た雰囲気ですが。
トマス)そのほかにも、『マイスタージンガー』第2幕の冒頭は「ヴァルキューレの騎行」のですよ。後者のリズムは「タッタタタ〜タ〜」ですが、前者のリズムは「タタッタタ〜タ」です。それをリピートするだけなんですが、それを聴かせるワーグナーオーケストレーションが面白い。ウインドがトリルで彩るオープニングが、そっくりですね。
ヨハン)ほんとだ。「騎行」を楽しくするとこうなるんですね(笑)