『マイスタージンガー』(2)〜第2幕「ニワトコのモノローグ」に見るハンス・ザックスの気持ち〜

ヨハン)今日は「マイスタージンガー」の中から、第2幕のハンス・ザックスのモノローグですね。
トマス)その部分の翻訳をアップしました。
http://www31.atwiki.jp/oper/pages/139.html#Flieder
音源もリンクしてみました。Youtubeからハンス・ホッターとトマス・スチュアートの歌唱を。http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=UA5YaxFPJKk#t=6s
http://www.youtube.com/watch?feature=endscreen&NR=1&v=iGlY2-0GpEQ
アンナ)最初のクラリネットのモチーフが、この曲の中で何度も繰り返されますね。勝手なハ長調読みで「ファ〜♯ド・レ〜・ミ・ファ・ラ〜・ミ・ファ〜」。ただ、それだけの2小節のモチーフなんですが、なんか胸騒ぎがするのはナゼでしょうか?「♯ド」に秘密があるような気がします。ピアノで弾いてみると、「なんでこれだけなのに、こんなにいいんだろう?」と思います。
トマス)そうですね。和声的には、すごく曖昧な感じがします。ワーグナーは、こういう「ワンフレーズモチーフ」を聴かせるのが、すごくうまいと思います。これを繰り返してるだけなのに、なんか憧れに胸を満たされて切なくなる感じがします。それが、ザックスの気持ちを何よりもよく表現します。
ヨハン)そのあとのホルンの音もすごく印象的ですね。「ニワトコのいい香り」が、音楽となって、こちらまで香りを放つような感じです。
トマス)ここの最初に4度下りて5度上昇して・・・という動きは、なんとなく『ジークフリート』第3幕の「愛の挨拶」の動機(『ジークフリート牧歌』でも出てくる動機)を思い出させます。このホルンの合奏が好きかどうかで、ドイツオペラ、特にワーグナーが好きかどうかが左右されるような気もします。良くも悪しくも、イタリア、フランスのオペラに、こんな音楽は絶対ないでしょう。もちろん私は大好きです(笑)
ヨハン)ワーグナーはホルンの歌わせ方がうまいですね。
トマス)これはヴァルブホルンだから可能になった音楽のようにも思います。この箇所ではないので、まったくの余談ですが、バイエルン王立歌劇場のホルン奏者だったリヒャルト・シュトラウスのお父さんが、ワーグナー本人に「こんなクラリネットみたいなメロディーが吹けるか!」と噛みついたが、本番では誰よりもきちんと吹くので、ワーグナーも文句が言えなかったという話がありますよね。これは確か「トリスタン」の話だったような気がしますが、いかにもその頃の雰囲気があって面白い話です。
アンナ)そのホルンの暖かい音色に乗せて、ハンス・ザックスが歌い出しますが、実にいい感じですね。

Was duftet doch der Flieder ニワトコのなんともいい香りがする。
so mild, so stark und voll! やさしくも、強く、ふくよかな香りだ!
Mir löst es weich die Glieder, この香りに、体の疲れはほどけ、
will, dass ich was sagen soll. 言うべきことを、言う気が出てくる。
Was gilt's, was ich dir sagen kann? だが、私ごときが何を言えるというのだ?
Bin gar ein arm einfältig Mann! 貧しく無学な私ごとき者が!
Soll mir die Arbeit nicht schmecken, 友よ・・・私が仕事に身が入らないときは、
gäbst, Freund, lieber mich frei; どうか好きなようにさせてくれ。
tät' besser, das Leder zu strecken, 皮をなめしていたほうがよっぽどいいのだから!
und liess alle Poeterei. 詩作などほったらかして。

アンナ)靴屋の仕事に取りかかろうとするのですが、「ニワトコ」の香りに誘われて、第1幕のヴァルターの歌を思い出すという寸法です。
トマス)このFliederは、普通に訳すと「リラ」なのですが、聖ヨハネの祝日(6月24日)の頃には、この花は咲いていないので、「ニワトコ」だろうと、ベルント・ヴァイクル氏は新国立劇場の公演(私はこの公演に行けなかったのですが)の解説で書かれています。なので私もそれに従います。
ヨハン)ということは、最初に「ニワトコ」と訳した日本の翻訳者は、それが分かっていたということですよね?
トマス)それがすごいですね。「リラ」と「ニワトコ」は、学名が異なる全く別の花なのですが、どうもワーグナーの言葉遣いが厳密じゃないような・・・。そうでなくても、こういう「植物」とか「動物」の訳は、けっこう難しいですね。
アンナ)さて、ザックスは、だんだん興奮してきます。「詩作などほったらかしにしたい!」という「グチ」はいいですね。この音楽を聴いていると、ザックスは、本当はけっこう短気で怒りっぽいキャラのような気もします(笑)
ヨハン)どうして、こんなにイライラしちゃってるんですか?僕は、まだよく筋書きを理解していないものですから。
トマス)そこがポイントかも知れません。これは私の解釈ですが、ハンス・ザックスは、靴屋という「職人」であるかたわら「詩人=歌手」でもあるという、いわば「二足のわらじ」を履いているわけです。彼に限らず、他の「マイスタージンガーたち」も、みんな「プロの歌手」ではなく、「本業」を持っていることが大事だと思います。しかし、その「二足のわらじ」は、ハンス・ザックスの「アイデンティティ」であり「プライド」なのではないでしょうか?これは典型的な「プロテスタント的倫理」な感じもします。史実のハンス・ザックスは熱心なルター派プロテスタントです。ちょうどルターが宗教改革の口火を切った時代ですし、領主に所属しない自由都市ニュルンベルクは都市としてもルターを熱烈に支持しています。
アンナ)宗教的な面はともかく、「職人」を尊敬する気風は、日本人には理解しやすいですね。ザックスは、「職人」であり「芸術家」でもあることが誇りでもありますが、そこに一筋縄ではない苦労があることを愚痴っているわけですかね。
トマス)ちょっと私の解釈が入っていますが、おおむねそうだと思います。
ヨハン)「マイスタージンガー」というのは「プロの歌手」ではないんですかね。
トマス)かと言って単なる「アマチュア」でもないような感じです。ついでの話ですが、タイトルのDie Meistersingerは複数形なので、正確な訳は「ニュルンベルクのマイスタージンガーたち」です。「名歌手達」とか様々な訳がありますが、それだと先述のような「マイスタージンガー」の意味が出てこないので、なかなか難しいですね。翻訳は難しいですが、おかげさまで、この場面のハンス・ザックスの苦労が少々分かる気がします(苦笑)。もっとも私の場合は単なる趣味ですが、ザックスの詩作は、それ自体がニュルンベルクの発展につながるのだという市民としての責任感があります。たとえば「貧しく無学な私ごとき者が」という歌詞に、逆に強い自負心が顔をのぞかせているようにも思えます。
アンナ)そう思って聴くと面白いですね。ワーグナー自身の思いも入っているのでは?
トマス)そのとおりだと思います。もっとも作者自身はそういう謙遜はしませんが(笑)。一方、毀誉褒貶にさらされた人なので「私の芸術が気に入らないのなら、いっそ全部やめさせてくれ!」というセリフはワーグナーの愚痴そのものでしょう。もっとも、全然「詩作」をやめる気はないのですがね(笑)
アンナ)最後の4行の原文の意味が分かりにくいです。
トマス)この作品のリブレットは、そういう箇所が多くてホントに苦戦しますよ・・・。私もザックスに合わせて、「ポエテラ〜イ」と叫びたくなってしまいます。この「ポエテライ」(詩作)という言葉自体に、ちょっと自嘲的な響きがありますね。ちなみに、ドイツ語では「高貴な詩=文学」は通常「ディヒトゥング」です。
アンナ)そこでは、このあと出てくる「靴屋の歌」のメロディーが先取りされていますね。でも、ザックスは、すぐに心を落ち着かせます。基本的に気分転換というか感情のコントロールがうまい人のような気がします。「年の功」でしょうか?
ヨハン)ここから先の音楽は、例のモチーフが何度も繰り返されて、文句なくいいですね。

Und doch, ‘s will halt nicht geh'n. ふうむ・・・どうも今日はうまくいかぬようだ。
Ich fühl's - und kann's nicht versteh'n - 心では感じているのに・・・頭では分からない・・・
kann's nicht behalten - doch auch nicht vergessen; 捉えることができないのに・・・忘れることもできない。
und fass ich es ganz - kann ich's nicht messen! ついに捉え切ったぞと思えば・・・こんどは測ることができない!
Doch wie wollt' ich auch messen, だが、測れるはずがあろうか?
was unermesslich mir schien? そもそも測りがたきものに思えるのだから。
Kein' Regel wollte da passen 全く規則には沿っていないのに、
und war doch kein Fehler drin. それでいて間違いなど一つもなかった。
Es klang so alt und war doch so neu 昔なじみの響きなのに、それでいて新鮮だった。
wie Vogelsang im süssen Mai! まるで五月の鳥の歌声のようだった!
Wer ihn hört だとすれば、鳥の声に耳を傾け、
und wahnbetört 我を失って狂ったように
sänge dem Vogel nach, 鳥のまねをして歌う者は、
dem brächt' es Spott und Schmach. - 嘲られ、屈辱を味わうというのか・・・。
Lenzes Gebot, die süsse Not, あれは春の命令・・・甘美な衝動・・・
die legt' es ihm in die Brust: それが、あの若者の胸を突き動かしていた。
nun sang er, wie er musst'! しかし、歌わざるを得ないことを、歌っただけではないか!
Und wie er musst' - so konnt' er's; しかも、そのとおりに歌えたのだ。
das merkt' ich ganz besonders. 私はそれに気づき、稀有のことだと感じ入ったのだ。
Dem Vogel, der heut' sang, 今日歌った鳥のくちばしは、
dem war der Schnabel hold gewachsen: 実に愛らしかった。
macht' er den Meistern bang, あの鳥は、他の名人たちを不安にさせたようだが、
gar wohl gefiel' er doch Hans Sachsen. このハンス・ザックスには大いに気に入った。

アンナ)あまり解説は不要かも知れませんね。いろいろなモチーフが出てくるところが、とても楽しいです。
トマス)そうですね。ここの歌詞は『マイスタージンガー』という作品自体の解説にもなっています。
アンナ)それは「一見古典的な音楽に新しい技法を盛り込む」ということですかね?
トマス)まさにその意味で、このモノローグは、この長大な作品の「取っ掛かり」として、すごくいいと思うんですよ。「第1幕前奏曲」で聞き覚えのあるモチーフや、第1幕後半のヴァルターの歌のモチーフなど、いろんなモチーフが現れて、クライマックスではザックスが例のモチーフ「ファ〜♯ド・レ〜・ミ・ファ・ラ〜・ミ・ファ〜」を「春の命令、甘美な衝動」というセリフで歌います。分かりやすいですね。
ヨハン)なるほど・・・。何度か聴いていると、「古いようだが、それでいて新しい」というのは、この音楽そのものを指しているような気がしてきました。
アンナ)ちょっと「自己言及的」なところがありますね。
トマス)その「自己言及的」な側面は、この作品の魅力の一つでもありますが、なんとなく「つぎはぎ細工」的な感じもします。
ヨハン)おやおや。ずいぶん批判的ですね。
トマス)いや、特に「批判的」な意味ではないんです。これも私のごく私的な意見ですが、ワーグナーはこの作品では、いい意味で「気楽」に作っていますね。
アンナ)それも「批判的」な気が(笑)
トマス)「トリスタン」「神々の黄昏」「パルジファル」のような、一瞬も気を抜けないような息詰まる緊張感というのは、この作品には感じられません。でも、だからと言って、それが悪いわけではないのです。「職人技」を駆使しつつも、あえて「自由」に作っている。だから「自己言及的」なんでしょう。
ヨハン)その意味で「喜劇」なんですかね?
トマス)アドルノは、この作品(たしか第3幕の前奏曲)で「コラール」が、ある意味すごく通俗的に処理されているとの批判をしています。しかし、それこそがワーグナーの意図なのですから、ちょっと的外れな批判なのでは?と私は思います。ただ、書いてあることは、まったくその通りだと思うので、本当に慧眼な批評だと思います。もっと分かりやすく書いてくれれば、さらにいいのですが(笑)。古い素材を前に、どれだけ自由な創造力を発揮できるか、ということでしょう。
ヨハン)しかし、ワーグナーは、ここで本当にそれに成功したのかな・・・?口はばったい言い方ですが、それは芸術の永遠の課題だと思います。
トマス)たしかにそうですね。たとえばブラームスは、その全作品を通して、まさにそれをやっているような気がします。彼が「マイスタージンガー」を観て、いっとき熱狂したけど、すぐ醒めてしまったというのは、本質的な芸術観の違いもさることながら、ワーグナーが「パロディー」に踏み込んでいる点が大きいような気が。でも「黄昏」には高い評価をしています。その意味では、アドルノのコメントも分かりますね。でも私は、この作品は本質的には「エンターテイメント」なんだと思います。そう思って楽しめばいいのですが、「きまじめさ」が払拭できないので、いまいち完全な娯楽作品になっていないような気もします。
アンナ)でも、ハンス・ザックスが、若者の心情を思いやって歌うのがいいんですよね。そのまじめさに魅かれるものがあります。
トマス)やはりザックスの歌を中心に攻めていくといいと思います。次回は、第3幕の「迷い(狂気)のモノローグ」を取り上げましょう。すでにアップはしていますが、解説はたぶん来週に。
http://www31.atwiki.jp/oper/pages/143.html#Wahn