ローエングリン特集(2)〜「民衆の心」としてのエルザ〜

前回の記事の続きです。下記のリンクは第2幕の後半です。
http://www31.atwiki.jp/oper/pages/1431.html
私見では、エルザはワーグナーにおける最初の「成功したヒロイン」です。ゼンタとエリーザベトの「キャラの立ち方」は、これに比べると数段落ちます。『ローエングリン』では主役をローエングリンとエルザがともどもに担っていると言っていいでしょう。『マイスタージンガー』のエーファは、作者の熟練によりキャラは立っているのですが、重要度はかなり落ちます。ここでは「民衆の心」はハンス・ザックスが代表しているのです。ワーグナー作品を良く知っている方なら首肯していただけると思うのですが、エルザはブリュンヒルデのプロトタイプ(原型)であり、前者を先行して創造していなければ後者は絶対に有り得なかったと私は思います。この点を深めるために、本当は訳に一つ一つ注釈をつけたいところですが、それは「後のお楽しみ」としましょう。
最後にもう一つどうしても指摘したいことは「このエルザという役の難しさ」です。もちろんワーグナーはどれも難役ですが、ブリュンヒルデとかイゾルデあるいはクンドリーというのは「ドラマティック」に表現すればよいということがはっきりしています。
エルザの難しさというのは「リリカル」と「ドラマティック」が混ざり合っていることだと私は思います。ワーグナーのソプラノ役については下記のような分け方が可能かも知れません。
・リリカル役 エリーザベト、エーファ、フライア、グートルーネetc
・ドラマティック役 ゼンタ、オルトルート、イゾルデ、ブリュンヒルデ、クンドリーetc
これはあくまで個人的な意見ですが、エルザというのは、このどちらにもカテゴライズできず、敢えて言えば「基本的にリリカルなのにドラマティック能力も必要」というハイブリッドな歌唱が要求されます。 
これはある意味不可能な要求で、「エルザの夢」がまさにその綱渡りを要求されていることに注意深いリスナーなら必ず気がつくと思います。最初は「夢」でしかないので消え入りそうにリリカルに始まるものが、歌唱の進行につれ、夢を現実に変えるという「ドラマ」を表現せねばなりません。超絶的に難しい課題だと思います。申し訳ないのですが、多くの歌手は、初めからドラマティックに表現してしまうか、または、ずっとリリカルで盛り上がらないか、どっちかだと思います。ヒストリカルの実例でいうとキルステン・フラグスタートが前者でしょうか。私は、彼女はもちろんすごくいいと思うのですが、それでもなお割り切れないものが残ります。
http://www.youtube.com/watch?v=Ty-m7G7hA8I&feature=player_embedded
どうしてうまくいかないのか?ここからはあるいは暴論かも知れませんが、その理由は「この役がドラマティックの役になっている」ことにあると思います。私はこの「伝統」は間違っていて、例えば『フィガロ』のスザンナを歌う「リリカル役」の人がドラマティックに表現すべきだと思います。
その観点からいうと、私が聞いてみたいのはルチア・ポップさんのエルザで、たぶん歌っていたはずなのに録音が残っていません。もちろん「ファン心理」でもあるのですが、彼女の表現力から言うと、実は私にとってはそれが一番いいエルザだった可能性もあるような気がします。彼女が歌う『タンホイザー』のエリーザベトも、私にとってはベストです。この作品は正直言って、ワーグナーの10作品の中で私にとって最も評価が低いものなのですが、この歌唱を聞いて自分の概念が覆されました。というのは「こんな女性いるはずないじゃないか・・・」と経験上(笑)、私は思ってしまうのですが、ここまで清純に表現されると「もしかして純愛ってあるかもな」と17歳の心に帰ってしまいました。これは我ながらすごいことです。
[rakuten:hmvjapan:10950146:detail]
ちなみに『タンホイザー』って人気が高いのは、たぶん女性がこの作品を好きだからでしょうね。男性は私も含めてたぶんあんまり好きじゃないです。フィクションとはいえ結末が安易すぎるような気がします。私はどうせならヴェーヌスと一緒にいたいです。彼女はエリーザベト以上に苦しんでいるような気がしてなりません。そう考え出すと、『タンホイザー』というのは実に「生煮え」です。おそらくワーグナー自身ずっとそう考えていて、だからこそ『パルジファル』のクンドリーを創造したのだと思います。
話が脱線しましたが、エルザは本当に素晴らしいキャラで、それは「強さ」と「弱さ」が彼女の中には同居しているからです。一方、彼女の中には「謙虚さ」と「高慢さ」も同居しています。すなわち、ローエングリンと「神」に対する「謙虚さ」の一方、オルトルートを自分が「救ってあげよう」とする「高慢さ」です。これは捉われない目で見た「人間」そのものです。私の翻訳がそれを読み取るに足るものであればと願っています。