トーマス・マン『魔の山』より(2)〜「妙音の泉」の解題と最終章の翻訳〜

アンナ)前回のトーマス・マン魔の山』の文章は、すごく熱がこもった文章ですね。
トマス)そうですね。この小説は、いつもは「イロニー」つまりどちらつかずの態度が基調となっているのに、ここでは本当に真剣な感じがします。ある意味、これは小説全体のクライマックスのようにも思えます。
ヨハン)『菩提樹』の歌に「死」を感じとるというのは、『冬の旅』を知っている人から見ると、あまり意外ではないですね。
トマス)主人公ハンス・カストルプは、すごく単純な青年というキャラ設定がなされていますが、ある意味、「一般的ドイツ人」というところがあります。その彼が、シューベルトのもっともシンプルな曲に感情移入するところが面白い点ですね。
アンナ)確かに、マニアだと、もっとマイナーな曲を取り上げたくなりますね(笑)
トマス)マンは、『菩提樹』を通して、ドイツロマン派の音楽全体にある「死への親近感」を語っていますが、主人公ハンス・カストルプ自身がもともとその性向を持っています。そこにショーシャ夫人との恋愛体験が絡まりあう「愛と死」の体験にこそ、この「ロマーン」(長編小説)の真骨頂があると思います。
ヨハン)でも、その「愛=死」の経験を通して「生」に至る道の可能性が、第6章の『雪』では語られていたと思います。
トマス)ハンスがスキーで遭難しかかる場面ですね。そこでは、ハンス青年の夢という比喩の形をとって現れます。これに対して、この箇所は、批評に満ちていますが、これもまた一つの小説全体の要約ということができるでしょうね。
アンナ)最終章で、ハンス・カストルプは『菩提樹』を口ずさみながら、第1次世界大戦の戦場に消えていきます・・・。
トマス)今回、そこも翻訳しました。本稿の最後に掲載します。
ヨハン)レコードを聴いていた箇所から、この戦場の描写へと飛ぶと、気持ちがとても切なくなります。
アンナ)そう考えてみると、ハンス・カストルプが抱いた「良心の疑惑」というのは、第1次世界大戦後に初めて芽生えた作家自身の思想のような気がします。『妙音の泉』では、すごく作者であるトーマス・マン自身が前面に出てきていますね。
トマス)ほんとにそのとおりで、小説の時間の中から、いきなり「現在」(と言ってももちろん1925年の現在)が突き破って現れてくるような気がします。特に、次の文章がそうですね。

この歌がかくも神秘的な心情をもって代表している一般的精神、この感情世界の魅惑的な力に、彼の心があれほど高次元に通じていなかったとしたら、彼の運命は異なっていたはずだ、と。まさにこの運命こそが、上昇を、冒険を、洞察をもたらし、思想的な陣取りゲームを彼の心に惹き起こしていたのだ。それは、彼の心を「その世界」への予言めいた批判で満たした。「その世界」への批判、そしてそれ自体はもちろん賛嘆に値する「その世界」の比喩である「その歌」への批判、さらに「その歌に対する愛」への批判で満たし、この三つの概念全てを、良心が抱く疑惑のはかりにかけたのである。

ヨハン)普通は、音楽というものを、このような「疑惑のはかり」にかけたりしないですよね。第1次世界大戦後だからこそ、アクチュアルだったのではないでしょうか。
トマス)ところで、もう一つ確実に言えることは、これって、ドイツロマン派の音楽に縁のない人にとっては、まったく無用の文章だろうな・・・ということです。
アンナ)たしかに・・・。縁があるのが、いいのか悪いのか・・・。
トマス)ドイツロマンティシズムのうちにあるのは、究極の「内面性」、つまり究極の「純粋さ」であると同時に、やはり究極の「自己愛」という側面があると思います。次の文章は、それを言い表して余す所がありません。

しかし、それは今この瞬間、あるいはつい今しがたまで、新鮮で輝くばかりに健康だったのに、そのうち元の形を留めぬほどに腐りきってしまいそうな果実、心に最上の癒しをもたらす果実とはいえ、しかるべき時に味わわずに、時季遅れの次の瞬間になってしまえばもう、それを味わう人びとに腐敗と破滅を蔓延させる果実なのだ。

ヨハン)このあとの「自己超克」というのが、正直いまひとつピンとこないのですが・・・。
トマス)やはりそうですかね。原語は、Selbstüberwindung。「自らを克服すること」、「克己(こっき)」とも訳せます。ありていに言えば「ドイツロマン主義を乗り越える」ということでしょうが、なかなか上手く訳せません。
アンナ)そのあとの「私たち(※ドイツ民族のこと)はみな、この魔術から生まれた子供であり、この魔術に仕えることで、巨大な作用を地上に及ぼし得た」という箇所が面白いですね。確かにそうで、ドイツの「魔術的音楽」が及ぼしている影響は巨大だと思います。日本で、コンサートホールとか行くたびに、「200年ぐらい前の他国人が作った音楽をなんで日本人みんなで聴いているんだろう?」と不思議に思いますもん(笑)
ヨハン)「魂の魔術を操る芸術家」の箇所に、訳注として「おそらく代表はワーグナー」とありますが、これはやはりそうなんですかね?
トマス)「この歌に巨大な規模を与え、これで世界を組み伏せることもできたし、そこに王国さえも築くことができただろう」と続きますからね。何といっても「ワーグナー王朝」ですから・・・。さらに、その次の「地上的、あまりに地上的な国」(irdisch-allzu-irdishe Reiche)は、ニーチェの『人間的あまりに人間的な』(Menshliches,Allzumenshliches)をもじっていますから、その点からも、ここで言っているのはワーグナーのことでしょうね。
ヨハン)では、「きわめて粗野で、進歩を享受し、つゆほどの郷愁も知らない国」というのも、ワーグナーと関連しているんでしょうかね?
トマス)ここは、そうじゃないでしょうね。「粗野」(derb)という言葉ほど、ワーグナーの音楽と縁遠いものはないでしょう。そんなこと、マンが言うはずがないと思います。おそらく、第1次大戦の前から急速に近代化していったドイツを指しているのでしょうね。
ヨハン)「『菩提樹』のような歌さえ、そこでは電気仕掛けのレコード音楽に堕してしまう国を」というのは、現代から見ると、かなり懐古趣味な感じは否めないですね。
トマス)そうですね。マンは、どこまでも「この魔術から生まれた子供」なのであって、そこにこの巨匠の文学の魅惑と、その限界があると思います。最後に、『菩提樹』が再登場するフィナーレを掲載します。第1次大戦の勃発にともない、主人公ハンス・カストルプは、サナトリウムを去って従軍し、砲弾の飛び交う最前線にいます。

第7章より「雷鳴」(最終話)

 彼ら(兵士達)は、唸り声を上げながら飛んで来る砲弾を前に突っ伏したが、再び飛び起き、自分が砲弾の直撃を受けずにすんだことを喜び、若々しくも乾いた景気づけの歓声を上げながら、さらに駆け足で前進した。だが、別の者たちは、すでに砲弾の直撃を受けて倒れ、腕を宙にさまよわせつつ顔から突っ伏し、心臓を、あるいは内臓を撃ち貫かれていた。
 彼らは、顔を泥の中につけて横たわり、もはや身動き一つしなかった。ある兵士達は、背嚢(はいのう)に背中を持ち上げられたまま、後頭部で地面を掘り返すようにして、両手でぎゅっと空をつかんでいた。だが、森からは、またも新たな兵士が登場し、突っ伏したり、飛びあがったり、ある者は雄叫びを上げ、ある者は沈黙したまま、異様な形をした死体の間を、よろめきつつ前進していった。
 背嚢と銃剣を携え、泥れたマントとブーツをつけただけの、この若い血潮たち!人道的で純粋な心ならば、彼らの別の姿も夢想できただろう。こう考えられなかったろうか?入り江に馬を駆り、水と戯れる姿を。恋人と砂浜を散歩し、心優しき婚約者の耳元に口を寄せ、幸せそうに、仲睦まじそうに、弓の撃ち方について教え合う姿を。だがそうではなく、今この若い血潮たちは、炎の汚物に鼻先を向けていた。
彼らが歓喜を胸に任務を遂行していることは、それが際限のない恐怖と、言い知れぬ郷愁の中であったとしても、それ自体崇高で、私たちの顔色を失わせるに足りた。だが、彼らをそのような状態に突き落とした理由はと言えば、そんな理由などどこにもないのだ。
 あそこに私たちの知り合いがいた!ハンス・カストルプだ!彼が「不良のロシア人たちのテーブル」でたくわえていた口ひげのおかげで、だいぶ遠くからでも彼だと見分けることができた。彼は、全身ずぶ濡れになりながらも燃えていた。他の全ての兵士達と同じように。彼は、足を土に取られるように重たく走り、銃剣をこぶしに握りしめていた。見よ。彼は、無残な姿に変わってしまった戦友の手に近寄り、鋲を打ったブーツの底で、粉々に砕けた枝が散乱する、ぬかるんだ地中深くに、その手を埋めていた。
だが、そのような姿にも関わらず、彼は彼だった。なんということだ!彼は歌を歌っている!放心のあまり目が虚ろになる興奮状態の中で、それとは知らず人が歌を口ずさむように、彼は息を切らしながらも、小声で独り言のように歌を歌っていた。
「ぼくは木の幹に刻んだ・・・
 いくつもの愛のことばを・・・」
 彼は倒れた。いや、そうではない。突っ伏しただけだ。地獄の犬が吠え、猛烈な火薬入りの巨大な砲弾が、深淵から来た吐き気を催す三角形の砂糖菓子が、こちらに向かってきたからだ。彼は横たわっていた。冷たい泥に顔を埋めて、両脚を大きく広げて、両足首をねじって、かかとを地面に向けていた。
 野蛮化した科学の産物、その中でも最悪のものを装填された科学の産物が、彼の三十歩ほど斜め前で、悪魔のように地中深く突き刺さり、いとわしい暴力をふるって地下から炸裂し、土と火、鉄と鉛、バラバラになった人体から成る爆風を、家の高さほどに空中に放り投げた。そこには二人の兵士がいたのだ・・・。その二人は親友で、危険が迫ると、いつも一緒に身を伏せていた。そして、今こそ混じり合い、ともに消えてしまったのだ。
 ああ!私たちが、陰に隠れた安全な場所にいることは、何という恥ずべきことだろう!もう行こう!もう語るまい!私たちの知り合いにも命中したのか?彼自身、一瞬そう思ったのだ。巨大な土くれが、彼のすねを打ち、すねはひどく痛んだが、そんなことは笑うべきことにすぎなかった。彼は再び出ちあがると、土に引っ付くような足を引きずりながら、よろめきつつ進んでいった。無意識に、こう口ずさみながら・・・。
 「すると枝がざわめいた・・・
  まるで、ぼくにこう呼びかけるように・・・」
 彼の姿は、こうした騒乱と、雨と、黄昏につつまれながら、私たちの視界から消えていった。
 さようなら。ハンス・カストルプ!素直な心を持つ人生の厄介息子よ!君の物語は終わる。私たちは最後まで語り終えた。これは、短くもなく長くもない物語、錬金術的な物語であった。我々はこの物語を、それ自体のために物語ったのであって、君のために物語ったのではない。君は純朴な青年なのだから。だが、それはやはり君の物語であって、君の身に起こった物語だったからには、君にはどこか食えない所があったに違いない。君の人生を共にたどるうちに、私たちが君に抱いた教育者的愛情は何と言っても否定できない。もうこの先、二度と君の姿を見たり、声を聞くことができないと思うと、私たちがそっと指先で目頭を拭わずにはいられないのは、その愛情のゆえなのだ。
 さようなら!・・・君が生きるにせよ、斃れるにせよ!この先の君の見通しは暗い。君が引きずり込まれた忌わしい死の舞踏会は、まだ数年間、罪の年月を重ねながら続いていく。君がそこから生還することは、あまり期待できない。だが、正直に言うと、私たちはもうその問題にかかわる気はない。君の単純な心を高めた肉体と精神との冒険は、肉体として生き残るよりもずっと長く、君を精神の中で生き永らえさせるはずだからだ。
かつて、死と、肉体の淫欲の中からも、予感に満ちあふれ、思想の陣取り合いの中で、愛の夢が生まれてきた幾つもの瞬間があった。だとすれば、この全世界を覆う死の大祭、この雨模様の夕空をぐるりと取り巻く悪しき業火の中からも、いつの日か、愛が立ち昇ってくる時があるのではなかろうか?

完(Finis Operis)

ヨハン)あまりにも凄惨で、読むのがつらくなります。
トマス)そうですね・・・。第1次世界大戦というのが、いかに酷い戦争だったかということを(もちろん酷くない戦争などないですが・・・)知って読むと、ますます辛くなります。ですが、今回、自分で訳してみて気がついたのは、この小説を締めくくる末尾の文章は、思っていたよりもずっと肯定的なものなのだということです。「愛が立ちのぼる時はきっとあるはずだ」と訳しても良い文章ですね。
アンナ)ですが、この小説の発表後のドイツの現実は、ナチスの台頭という、さらに暗い結果になります。
トマス)そうですね・・・。ここで、『妙音の泉』の末尾を、最後にもう一度、振り返ってみましょう。

だが、この歌の最上の子供とは、きっと、この歌を克服することに命を費やし、まだ口にする術を知らなかった愛の新たな言葉を唇に浮かべて死んだ者(※第1次世界大戦で戦死した若者たちのこと)なのだ。この歌のために死ぬことには価値があった。この魔法の歌のために死ぬことは!
しかし、この歌のために死ぬ者は、もはやその歌のために死ぬのではなく、原理的に新しいもののために死ぬからこそ勇者だったのだ。胸のうちに、愛と未来の新たな言葉を秘めながら・・・。

トマス)心をかきむしられるような文章なのですが、この書き方自体がロマンティシズムのような気がして、そこに矛盾を感じなくはない面もありません。それこそ「自己超克」の対象なのかも知れません。
アンナ)「この魔法の歌」(das Zauberlied)という語句は、『魔の山』(Der Zauberberg)というタイトルと重なり合っているようにも思えます。
トマス)そうですね。この小説自体が、音楽や文学をひっくるめたドイツロマン主義に捧げられているのだと思います。