トーマス・マン『魔の山』の抄訳〜ドイツロマン主義とその超克〜

予告後に、ずいぶん時間がかかりましたが、やっとできました。トーマス・マン魔の山』第6章『妙音の泉』からの翻訳です。
スイスのサナトリウムで日々を過ごす主人公ハンス・カストルプは、サナトリウムが導入した最新式の蓄音機のレコードにハマってしまいます。その中でも彼の愛したレコードとして、5つの曲が取り上げられるのですが、その最後の曲がシューベルト『冬の旅』の『菩提樹』です。
作品に入る前に、まずはシューベルトの『菩提樹』を翻訳しました。

Der Lindenbaum (W.Müller) 菩提樹 (歌詞:ヴィルヘルム・ミュラー
  
Am Brunnen vor dem Tore, 市門の前の泉のそばに
da steht ein Lindenbaum: 菩提樹が立っている。
ich träumt’ in seinem Schatten その木陰で、ぼくは夢見た・・・
so manchen süßen Traum. いくつもの甘い夢を。
  
Ich schnitt in seine Rinde ぼくは木の幹に刻んだ・・・
so manches liebe Wort; いくつもの愛のことばを。
es zog in Freud' und Leide 喜びのときも、悲しみのときも、
zu ihm mich immer fort. いつもぼくは、あの樹に引き寄せられた。
  
Ich musst' auch heute wandern 今日もその樹のそばを
vorbei in tiefer Nacht, 真夜中に通り過ぎねばならなかったが、
da hab ich noch im Dunkel 真っ暗闇だというのに、
die Augen zugemacht. ぼくはぎゅっと両目を閉じた。
  
Und seine Zweige rauschten, すると枝がざわめいた・・・
als riefen sie mir zu: まるで、ぼくにこう呼びかけるように。
komm' her zu mir, Geselle, おいで・・・若者よ・・・
hier find'st du deine Ruh'! ここでこそ、お前は安らぎを見い出す!と。
  
Die kalten Winde bliesen 冷たい風が、
mir grad ins Angesicht; ぼくの顔に真っ向から吹きつけ、
der Hut flog mir vom Kopfe, 頭から帽子が吹き飛ばされたが、
ich wendete mich nicht. ぼくは振り向きもしなかった。
  
Nun bin ich manche Stunde いま、ぼくは何時間も遠く
entfernt von jenem Ort, あの場所から離れたが、
und immer hör' ich's rauschen: 今も鳴りやまず、あのざわめきが聞こえてくる・・・
du fändest Ruhe dort! あそこなら安らぎを見い出せただろうに!と。

youtubeは、ヘルマン・プライhttp://www.youtube.com/watch?v=J1S3v6M_4ts

さて、ここからが本題。

(略)
その曲はシューベルトの『菩提樹』、あの誰もが知っている「市門の傍の泉のほとりで」から始まる歌にほかならなかった。
若いテノール歌手は、ピアノの伴奏に乗せて、この曲を見事な節度と品位で歌った。この素朴にして最高級の作品を、きわめて知的に、音楽面の感情の繊細さに加え、朗誦面の配慮も忘れずに表現していた。
誰もが知るように、この素晴らしい歌は、民謡または童謡としては、芸術歌曲とは異なった演奏がされる。童謡の場合、曲は単純化されて、おおむね最初の主題に沿った有節歌曲として歌い通されるが、歌曲の場合、この名高いメロディーは、8行から成る詩節の第2節で早くも短調に変化し、その5行目で極めて美しく長調へと回帰する。
そして、それに続く「冷たい風が」の箇所で、頭から吹き飛ばされる帽子のイメージへとドラマティックに変化すると、第3節の最後の4行で、初めて元のメロディーが再現し、それがもう一度繰り返されて、歌い終わられるのである。
この曲には、まことに心を打たれるメロディーの変化が三度ある。それは転調する後半部に二度現れ、第三節の最後の4行「いま、ぼくは何時間も」の繰り返しで三度目に変化する。これらの後半部では、「いくつもの愛の言葉を」「まるでぼくにこう呼びかけるように」「遠くあの場所から離れたが」のような切れ切れの詩句の上に、表現不可能なほど魔術的なメロディーの変化が浮かぶ。
テノール歌手は、明るく温かく、巧みな息遣いを見せつつ、今にもすすり泣きそうに、この曲の美しさを余りにも知的な感情を湛えた声で表現していたので、聴いていた青年は、予想だにしなかったほど心を打たれた。
とりわけ心を揺さぶられたのは、この歌い手が、詩の効果を高めるために、極めて心のこもった頭声で、「いつもぼくは、あの樹に(ihm)」「ここでこそ、お前は安らぎを見い出す(find’st)」と歌った時だった。だが、繰り返される最後の詩行・・・「あそこなら安らぎを見い出せただろうに!」の箇所で、この歌手は、その「見い出せただろうに(fändest)」を初めは憧れを込めた豊かな声量で、リフレインになって初めて、今にも壊れてしまいそうなぐらい、かすかなフラジョレットで再現したのである。
(略)だが、この昔なじみの『菩提樹』がハンス・カストルプに意味したものを理解することは、きわめて微妙な試みと言わざるを得ない。
(略)
我らの純朴な主人公(ハンス・カストルプ)は、錬金術的上昇過程とも言うべき長い歳月をとおして、「精神的な生」の世界に十分深く踏み込み、「精神的な生」が抱く愛と、その愛の対象とを「自覚する」ようになったというのだろうか?
私たちの考えでは、そのとおりである・・・彼はそうなったのだ。その歌は、ハンスにとって多くのことを、世界全体をすら意味していた。彼はその世界を愛さずにはいられなかった。そうでなければ、その世界を譬えているこの歌に、こんなに夢中になりはしなかっただろう。あるいは、やや曖昧な言い方ではあろうが、こう言い添えたとて、何の不思議があろう・・・この歌がかくも神秘的な心情をもって代表している一般的精神、この感情世界の魅惑的な力に、彼の心があれほど高次元に通じていなかったとしたら、彼の運命は異なっていたはずだ、と。
まさにこの運命こそが、上昇を、冒険を、洞察をもたらし、思想的な陣取りゲームを彼の心に惹き起こしていたのだ。それは、彼の心を「その世界」への予言めいた批判で満たした。「その世界」への批判、そしてそれ自体はもちろん賛嘆に値する「その世界」の比喩である「その歌」への批判、さらに「その歌に対する愛」への批判で満たし、この三つの概念全てを、良心が抱く疑惑のはかりにかけたのである。
愛に関わる事柄に通じない者にとって、そのような疑いは、紛れもなく愛を損なうものだと思われよう。いいや、それこそが逆に愛を刺激するのだ。情熱に初めての「とげ」を与えるものこそ「疑い」なのだから、情熱それ自体を「疑いながらの愛」と定義することもできよう。
だが、それにしても、この魔術的で魅惑的な歌をもっと深く愛することに対して、ハンス・カストルプの良心に芽生えた疑い、思想上の疑いは、一体どこにその根拠があったのだろうか?その背後に潜む世界とは何だったのだろうか?彼の良心が抱いた直感では、禁断の愛の世界にほかならなかった「その世界」とは?
それは、「死」だった。
いやはや!なんたる馬鹿げたことを!かくも奇蹟のように美しい歌を!民衆の神聖な魂の奥底から生み出された、このように純粋な傑作を!この至宝を!内面性の理想であり、愛すべき価値そのものを!なんたるひどい侮辱だろう!
はいはい、まったくそのとおり!まったくもって、真っ当な反論だ!確かに、まじめな人ならば、きっとみんなそう反論するだろう・・・。
だが、それにも関わらず、この愛らしい歌曲の背後には「死」がある。
この歌曲は死と密接に関連している。それを愛することは構わないが、未来を予告する思想的な対決の真っただ中では、その愛には一定の禁止がかけられねばならない。
この歌は、その出発点の姿においては、なんら死への共感など持ち合わせておらず、きわめて庶民的な生命感に満たされていたはずだった。しかし、ひとたびそこに精神的共感を感じるや否や、それは「死への共感」であった。いくら純然たる宗教心や、思いやりの深さから始まったとしても、そしてそのことにまるで疑う余地がなかったとしても、その結果生じたことは、暗黒の結末(※第1次世界大戦のこと)だったのだ。
(中略)ハンス・カストルプの郷愁を誘う愛らしい歌、その歌が帰属する精神圏、そしてこの精神圏に対して感じずにはいられない愛情、こうしたものが「病的」だというのだろうか?いいや、絶対にそうではない!こうしたものは、この世で最も健康な心情から生まれたのだ。
しかし、それは今この瞬間、あるいはつい今しがたまで、新鮮で輝くばかりに健康だったのに、そのうち元の形を留めぬほどに腐りきってしまいそうな果実、心に最上の癒しをもたらす果実とはいえ、しかるべき時に味わわずに、時季遅れの次の瞬間になってしまえばもう、それを味わう人びとに腐敗と破滅を蔓延させる果実なのだ。
それは生の果実だが、死によって生み出され、その胎内に死を孕んでいる。それは魂が生み出した奇蹟 − 良心を知らない美の視点からすれば、あるいは最高級のものであり、その賛美を浴びもしようが、責任をもって思考を制御しようとする「宥和的な生」、すなわち「有機性への愛」の観点から見れば、いくつもの説得力ある理由から不信の目にさらされ、良心の最終審判に従えば、自己超克の対象物にほかならないのだ。
そう・・・自己超克。きっと、それこそがこの愛を、暗黒の結末をもたらす魂の魔術を克服することの本質なのだ! ハンス・カストルプの思考、もしくは、予感に満ちた「まどろみ」は、夜の孤独の中で「音の棺(蓄音機)」に肘をついて腰掛けながらも、高く高く飛翔し、彼の悟性を遙かに超える高みにまで昇って行った。それは錬金術的に飛翔していく思考だった。
ああ!なんと強力なのだ!この魂の魔術は!私たち(※ドイツ民族のこと)はみな、この魔術から生まれた子供であり、この魔術に仕えることで、巨大な作用を地上に及ぼし得た。
もはや天才は必要なかった。『菩提樹』の作曲家(※シューベルト)よりも、もう少し才能がありさえすれば、魂の魔術を操る芸術家(※おそらく代表はワーグナー)として、この歌に巨大な規模を与え、これで世界を組み伏せることもできたし、そこに王国さえも築くことができただろう。地上的、あまりに地上的な国・・・。きわめて粗野で、進歩を享受し、つゆほどの郷愁も知らない国。 『菩提樹』のような歌さえ、そこでは電気仕掛けのレコード音楽に堕してしまう国を。
だが、この歌の最上の子供とは、きっと、この歌を克服することに命を費やし、まだ口にする術を知らなかった愛の新たな言葉を唇に浮かべて死んだ者(※第1次世界大戦で戦死した若者たちのこと)なのだ。この歌のために死ぬことには価値があった。この魔法の歌のために死ぬことは!
しかし、この歌のために死ぬ者は、もはやその歌のために死ぬのではなく、原理的に新しいもののために死ぬからこそ勇者だったのだ。胸のうちに、愛と未来の新たな言葉を秘めながら・・・。
ともあれ、ハンス・カストルプの愛したレコードは、こうしたものだった。

ドイツロマン主義の音楽というものを、これほど愛情を込めて語っている文章はないと思うのですが、考察は次回にしたいと思います。