目覚めの瞬間〜アドルノ「ヴァーグナー試論」を読む(2)〜

アドルノヴァーグナー試論』(高橋順一訳)へのコメントの続きです。この本ではヴァーグナーに対して「動機」「響き」「音色」「楽劇」などの章立てで厳しい指摘が続きます。その批判は、私としてはほぼ首肯できるものが多いですが、今から見ると時に行き過ぎや納得できない面も含んでいます。しかし「キマイラ」と名付けられた最終章(第10章)では、批判はむしろ「賛辞」となっているように思え、含蓄の深い、というよりむしろ「美しい」としか言いようのない文章が続きます。「キマイラ」とは、一般にはライオンの頭、ヤギの身体、蛇の尻尾を持つ姿で知られているギリシャ神話の怪物です。英語でもドイツ語でも、わりとよく出てくる単語ですね。

(180-181ページ)
・・・空虚なもの(das Nichtige)がヴァーグナーの作品のなかで具体的な形(Figur)となる。「私が目覚めた場所 −そこに私はとどまることが出来ない。とはいえ私がとどまる場所をおまえに語ることは出来ない。私には太陽が見えなかったし、国も人も見えなかった。だが私が見たものをお前に語ることは出来ない。私は、ずっと昔からいた場所、いつかそこへと帰ってゆく場所にいたのだ。広々とした世界の夜という国に」。こうした形の解明は最終的にはヴァーグナーニヒリズムそのものへの問いにかかっている。
 ヴァーグナーの作品においていつも無が具体的な何ものかへと高められていることは、あらかじめひとつの態度をさし示しているのかもしれない。それは、自分を傷めつける力との同化を極端なところまで推し進め、自分自身が没落することを自分にふさわしいものとするような態度である。(中略)
 そうしたもののいくばくかがヴァーグナーの中に現れている。無の具体化された形(Figuren)は、たんに底知れぬ空虚さを糊塗しようとする試みであるというだけではない。それは同時に、無を規定することによって思弁的なかたちで境界線を手に入れようとする試みでもある。この境界線によって無は何かある具体的なものへ造形されるのである。またさらに、否定性という符号を使ってその境界線の範囲から逸脱するものを描き出そうとする試みでもあるのだ。トリスタンの「どのようにその(神々しく永遠なる原なる忘却の)予感は消えてしまったのか」という言葉は、無への予感を何かあるものへの予感として表現しているのだが、それは、完全な否定性が自分自身の規定性という輪郭のなかへとユートピアというキマイラを囲い込む瞬間をしっかりと捉えている。それは目覚めの瞬間なのだ。あの『トリスタン』第3幕の始まりの、ホルンがオーケストラのなかでさながら無と何ものかのあいだの境界線を超えるように響き、トリスタンが動き出した瞬間を哀しげな牧童の歌のこだまが捉えるあの箇所は、市民の時代の根本経験が人間によって完全に成就されるときまで生き続けるであろう箇所である。またブリュンヒルデの目覚め(『ジークフリート』第3幕第3場)という別な箇所は、この作品の中におけるあの目覚めの瞬間、すなわちそれなしには無の概念それ自体もまた思考されえないような目覚めの瞬間の痕跡をとどめている。ヴァーグナーの音楽が示そうとしていたのはそういうことであった。

この文章でとりわけ印象に残るのは「それは目覚めの瞬間なのだ」以降の文章です。確かにこれらの「目覚めの瞬間」こそ、ヴァーグナーの最良の箇所であり、彼以外の誰にも表現できないと思います。「市民の時代の根本経験が人間によって完全に成就されるときまで生き続けるであろう箇所」という表現もきわめて含蓄があります。裏を返して言えば、この音楽が今でも生き続け、聴く者に訴えかけてくるというのは、市民の時代=近代の理想が、まだ決して成就されていないということを示しているようにも思えます。アドルノは、ヴァーグナーの音楽のうちにあるニヒリズムの中から、「市民の時代の根本経験」言い換えれば「近代」の根本概念としての「自由」を救い出そうとしているように私には思えます。