アドルノ「ヴァーグナー試論」結語〜トリスタン第3幕〜

アドルノにとって、トリスタン第3幕というのは、特別の作品だったように思えます。『試論』の末尾の文章でも、これが取り上げられます。(高橋順一訳『ヴァーグナー試論』作品社刊からの引用)

『トリスタン』第3幕の熱に浮かされた総譜には、あの陰鬱な、無愛想でごつごつした音楽が含まれている。この音楽は幻影(ヴィジョン)の効果音になるというよりむしろ幻影の正体を暴露するのだ。あらゆる芸術のなかでもっとも魔術的な芸術である音楽自身が、自らの全形態のまわりに蝟集させる魔術を打破する術を学ぶ。トリスタンによる愛への呪詛は禁欲に対して捧げられた陶酔という無力な犠牲以上のものである。それは、たとえまったく無駄なものであったとしても自分自身への運命の強制に対する音楽の反抗なのであり、この運命の強制によって音楽全体が決定づけられていることに直面するとき、ようやく音楽は自己反省をもう一度獲得するのである。
「恐ろしい媚薬」という言葉の後の『トリスタン』におけるあの諸音型が、新音楽(20世紀の現代音楽)への閾に立っていることには理由がある。この新音楽の最初の基準となったシェーンベルク嬰ヘ短調弦楽四重奏曲には「私から愛を奪え、私におまえの幸福を与えよ!」という歌詞が登場する。この言葉が語っているのは、愛も幸福も私たちが生きているこの世界においては虚偽であり、あらゆる愛の力はその反対物に移行していくということである。だがひとを麻痺させる模糊としたヴァーグナーのオーケストラのうねるような響きからこうした金属のように堅固なものをもぎ取ることが出来る者にとっては、ヴァーグナーのオーケストラの変化した響きは慰めの一助になりうるのである。だがこの慰めをヴァーグナーのオーケストラは、陶酔やファンタスマゴリーを帯びているにもかかわらず断固として拒否する。ヴァーグナーのオーケストラは寄る辺なき人間の不安を語ることによって、寄る辺なき者にとって、たとえ脆弱で偽りのものであろうと助けを意味しうるのだ。そして音楽の太古的な異議申し立てが約束したものをあらためて約束することが出来るのだ。不安なき生への約束を。

これは隠された賛辞というよりは賛辞そのもののようにも思えます。この文章の帯びる熱気からは、1930年代のナチズム台頭期の絶望的な雰囲気を感じます。これは、同時期のヴァルター・ベンヤミンの文章(例えば『複製技術時代の芸術作品』)にも通底しているように思え、時代を感じさせます。
「愛も幸福も私たちが生きているこの世界においては虚偽であり、あらゆる愛の力はその反対物に移行していくということである。」という文章は、ナチス期のアドルノの実感なのでしょうが、そのまま『神々の黄昏』の解説にもなっているように思えます。その意味で、まさにこの作品は予言的だったのだと思いますが、アドルノの言うように、ワーグナーの音楽の呵責無さからどれだけ「助け」を得ることが出来るか、という点に、「いまだに」私たちがワーグナーを聴く意味があると言えるようにも思えます。