マーラーの人生と創作を考える

今回ライプツィヒのイベントの視聴を通してマーラーについて改めて考えてみたのですが、この人の最もすごい所は「(今で言えば)ウィーン国立歌劇場の総監督」をやりながら、後世に残る交響曲を多数作ったことだと思います。
 通常、創作者というのはアウトサイダーなことが多いので、こんな現実感覚が求められる激職をやりながらクリエイティブな創作をした(主に夏休み期間中に)というのは、稀有のことだと思います。音楽家に限らず、あらゆる芸術家で他にはちょっと思いつかないです。あえて挙げればワイマール公国の宰相をしていたゲーテぐらいでしょうか。
R・シュトラウスはこれに近いと思うのですが、マーラーはウィーンのオペラ劇場の大革新に取り組んでいるので、彼以上にエネルギッシュな人だと思います。もっともそれが原因で、ウィーンの保守層を敵に回してしまったわけですが。
 この道はマーラーが望んだものではなく、彼が音楽院にいる時に提出した『嘆きの歌』がブラームスとハンスリックに拒否されて授賞しなかったことが原因だと言われています。確かマーラー自身が女友達のレヒナー・バウアーにそう愚痴っていたと思うのですが、その経緯は複雑で、必ずしもそうとは言えない面もあるようです。とはいえ結果から言うと、この「二足のわらじ」は意外と彼の作曲にとってはプラスの作用を及ぼしたと思います。
 オーケストレーションなどの技術的な側面ももちろんですが、実は一番良かったのは、彼の音楽が現実との対峙の中でリアリティを獲得し得たところにあったのではないかと思います。彼の音楽には「芸術とは何のために必要なのか?社会にとって何の役に立つのか?」という懐疑が根底にあるような気がします。これは古くて新しい問題で、決して解決されることはありません。その感覚がマーラーの芸術を現代的にしているように感じます。その点、R・シュトラウスは良くも悪しくも保守的だと思います。(私は今はとても好きなのですが、以前はそういう意味からやや低く評価していました。必ずしもそうでもないのかも知れません)
マーラーの音楽では「オーストリアや東欧の民謡調」と「ドイツ音楽の伝統」とが交錯しているように感じます。おそらくは彼の創作にあって最も苦しんだ時期というのは、第1・第2交響曲が成立する頃で、前者をどうやって「交響曲」のような後者の形式に昇華させるか煩悶したのではないかと想像します。
最近、本を読んでいて面白かったのは「マーラーは『歌曲交響曲』の作曲家だと思われるのを恐れていた」とあったことで、ちょっとびっくりしたのですが、確かに歌曲集『さすらう若人の歌』や『子供の不思議な角笛』は彼の人生の比較的遅い時期に公表されています。
私たちは『第1(巨人)』の第1楽章の第1テーマを聴くと、すぐ『若人』の第2曲を思い起こすのですが、初演を聴いた人はそんな歌曲があることをそもそも全く知らなかったわけですね。そう考えてみると面白いです。「歌曲交響曲の作曲家だと思われたくなかった」というのは、何か分かるような気がします。ベートーヴェンブラームスブルックナー交響曲を考えると、なんだか安っぽい感じがしてしまいます。今の日本語で言えば「演歌交響曲」(笑)みたいなイメージかも知れません。実際、『巨人』には今聴いても何となくそういう雰囲気があり、彼の交響曲で一番異質な感じがしてしまいます。最後まで「交響詩」にするか「交響曲」にするか悩んだというのが良く分かります。ただ、実はここには宝の山があって、その後彼はこの「素人くささ」の可能性を徹底的に追求しているような印象を受けます。
一方、『第2(復活)』は明らかに伝統的な「交響曲」を志向しています。念頭にあるのは紛れもなくベートーヴェンの『第9』です。それもあってか、この曲は彼の音楽としては比較的「民謡調でない」感じがします。音楽の骨格は基本的に「古典的」だと思いますが、舞台裏の積極的な活用など音響的な面で多々工夫を凝らしています。第3楽章・第4楽章は独創的ですが、これも先ほどの指摘と同じで『パドヴァの聖アントニウス』という曲があることなど当時は誰も知らなかったのでしょう。
『第3』からが本格的なマーラー交響曲創作の開始だったと思います。別荘を訪れたブルーノ・ワルターに「あの山ももう作曲したよ」と語ったかという逸話がありますが、これなんかマーラーの絶好調ぶりを伝えるエピソードだと思います。「3番」から派生して古典的な完成度を持つ「4番」など、この時点から湧き出すように次から次へと新たな交響曲が生まれるイメージです。
『第5』に声楽が無いのは『第3・第4』でやりたいことを大方やってしまったからだと思いますが、基本的には「純粋器楽曲」への挑戦ではないかと考えます。「5番」というのは私にとっては標題性を一番感じない曲で、1・2楽章、第3楽章、第4楽章、第5楽章がみんなバラバラで、まるでストーリー性を感じません。ところが個々に見ると、どの楽章も実に完成度が高いという不思議な曲です。とりわけ第3楽章の充実度がすごくて、マーラースケルツォの中でも最高傑作ではないでしょうか。
面白いのは、第5の頃マーラーはアルマと結婚しているのですが、冒頭のトランペットモティーフはメンデルスゾーンの「結婚行進曲」を短調にしていることで、これは自分に対するアイロニーなのでしょうか?実に複雑な人です。これに限らずこの人は「逆張り」の人で、娘が成長するのを見ながら『亡き子をしのぶ歌』を書くのもちょっとヘンです。幸せだと「いや・・・こんなはずはない」とほっぺたをつねる「幸せ貧乏」な人だったような気がします。
『6番』は一貫して「悲劇的」なトーンなのですが、これは彼が人生で最も幸せな時期に書かれているのもヘンといえばヘンですね。ただ音楽の内容は充実しています。曲自体は、実は形式的にも楽器の使い方も比較的単純な音楽に思えますが、オケが巨大です。「絶対音楽の極北」のようなものを目指しているような気がしてなりません。圧巻は第4楽章。「トリスタン」的半音階が必死に上を目指していくのに、その都度ハンマーが「ドン」と叩くので愛は成就せず憧れは満たされません。これも「逆張り」なのか?はたまた今後のアルマとの関係の予感なのか?『10番』の第4楽章の末尾(=終楽章の冒頭)に打ち鳴らされる大太鼓は、紛れもなくこのハンマーの自己言及でしょう。
『7番』の終楽章(第5楽章)は『6番』の終楽章と同じように巨大ですが、何だか良く理解できない音楽です。これは多くの人がそう言うのですが、色々な演奏で何度聴いてもさっぱり理解できません。はっきりとは分からないのですが、どうも調性の進行などが、あえて理解を拒む方向へと流れているような気がしてなりません。「わざと理解不能にしている」感じさえ受けます。それにしても「分からん」というのは、ある意味興味をくすぐるので、当分謎のままにしておこうかと思います。
この頃から楽器の使い方が独特な意味で洗練されてきて、和音を充実させた芳醇な響きではなく、室内楽の現代楽曲のような動きをするようになってきます。第2楽章がとりわけそうなのですが、どことなく孤独感のようなものを感じさせます。それは「大地の歌」(とりわけ「告別」)と「第9」の重要な部分で繰り返されることになります。
今回思ったのですが『8番』は実はマーラー交響曲の中で一番「素直」な作品かも知れません。彼のシンフォニーは「アイロニー」のようなもので捉えられることが多く、それは全く正しいのですが、この曲にはその要素が感じられません。その純朴なまでの素直さというのも彼の一面だったように思えます。『亡き子』と『リュッケルト』の歌曲集における表現はまさに「純朴の極み」ですから。
大地の歌』は、マーラーが「9」という数字にこだわったあまりに敢えて付番しなかったと言われているのですが、これはたぶん俗説(アルマが広めた?)なんでしょうね。これまでの系列から言うと「交響曲ではない」とマーラーはそもそも考えていたと思います。とはいえ、明らかに歌曲集でもないので、やむを得ず番号なしの交響曲にしたような印象です。
『第9』で彼は一気に「シンフォニストとしての最高峰」に駆け上がった印象ですが、その背景にあるのは、ウィーンの役職を退任したので、その分の時間を作曲に使えるようになったらではないかとも思います。編曲を通したバッハやシューマンの勉強も大きかったと思います。アルマは自分達がウィーンから追われたことをすごく悲劇的に捉えていますが、グスタフ自身は多分そうではなかったんじゃないかと・・・。彼はアメリカにわたってメトとかNYフィルで大活躍していますからね。たぶんギャラもこちらのほうが良かったはずです。何といってもアメリカですから。ただ生粋のウィーンっ子だったアルマにとっては耐え難かったというのは分かります。
さて最後になりましたが、マーラーというのは自分の内面をかなり正直にさらけ出す芸術家で、その点に共感したり反発したりするのがリスナーの楽しみでしょう。ですから、いまだに彼に対しては熱烈なファンがいる一方、大嫌いな人もまた存在するのでしょう。
なお、ワーグナーについては「嫌い」と言う人は通常彼の音楽をきちんと聴いたことがない(『ワルキューレの騎行』を除く・・・笑。せめて「前奏曲と愛の死」をきちんと聴いてからにしてほしい)のですが、マーラーが嫌いと言う人は、たぶん理解できた上で嫌いなのだろうと思います。もったいないような気もしますが、それは彼の交響曲がある種「文学的なもの」として構想されているからだと思います。柴田南雄の『マーラー』では、彼の音楽を「交響曲交響詩を融合した」と捉えていたかと記憶しますが、これは秀逸な捉え方だと思います。もっと突き詰めて言うと、おそらくマーラーのシンフォニーは「特定の物語に捉われない交響詩」なのだろうと思いますし、あるいは全てが「コンサートとして演じられるオペラ」(マーラー研究者のドナルド・ミッチェルも似たような表現をしていたかと思います)なのでしょう。それは歌の無い『第9』でも同じです。
私のような文学的もしくは思想的方面から入るタイプの人間にとっては、マーラーの音楽というのは実に興味深い対象です。