人間に変身するヒロイン達〜新国立劇場『夕鶴』

今日『夕鶴』を見たのですが、私は日本語のオペラというのは生まれて初めて見ました。これの良い所は、日本語なので、歌詞が良く分かる点だなとつくづく思いました。(当たり前ですね・・・)CD等ですら聴いたことの無い全く初めての鑑賞だったので、以下は全くの初印象を感じたり考えたりしたままに記載したいと思います。
それにしても、日本語なので事前に予習しなくても楽しめるというのは、実に良いです。それに加えて、オーケストレーションが比較的軽い上に、指揮者の高関さんが歌手とのバランスに細心の気配りをしていたので、ますます日本語が綺麗に聞こえたような印象があります。オケの演奏は実に良かったと思うので、まずは高関さんと東京交響楽団に拍手です。(なお、このオケはヤナーチェクもそうなのですが、民俗色のある作品に相性が良いかも知れません。全部聴いているわけではないので、これもイメージですが。)
栗山民也氏の演出は約10年前の再演ですが、広がりを感じさせるシンプルな舞台に幻想的な照明が当たり、舞い落ちて来る雪の輝きなど実に美しい舞台でした。日本の原風景というか、見ているだけで懐かしさがこみあげてくる感じです。
また、奇を衒わずに自然な美しさを醸し出す趣向は私の好みに合うので、実に心楽しく鑑賞することができました。オペラというのは、何といっても音楽が主役だと思うので、こういう「邪魔をせずに普遍的な感情を引き立たせる演出」というのは理想的だと思います。また、栗山氏はプログラムの冒頭で、演劇とオペラの演出の違いについて説得力のある意見を書いておられたので、思わずウンウンとうなずいてしまいました。日本語以外のオペラも演出してほしいものです。
さて、歌手なのですが、冒頭に出て来る村の8人の子供達(世田谷ジュニア合唱団)の歌がとてもうまい!この子たちは、その後も何度も現れるのですが、やたらとうまいので感心しきりです。しかも、着物を着ると、どう見ても江戸時代の村童なので、この子たちが洋服を着ている姿が逆にイメージできないぐらいです。(ほめているのか??)
与ひょうの小原啓楼さんは、なかなかの美声のテノールです。演技も自然体で良い感じ。初めのうちは終始ニコニコ笑っているので、おそらく原作通りの「お人よしすぎる素朴な人」として演じています。こうすることで、つうとの暮らしが実に幸せそうな感じになるので、私は「これからこの家庭が壊れるのか・・・」と思うと切なくなり、これ以上見たくないような気持ちになりました。これはとても印象的だったので、この夫婦円満の描き方がこの演出のキーポイントだったのかも知れません。
つうの腰越満美さんは、着物姿が美しい上に所作が細やかなので、もうそれだけで十分なぐらいですが、なんと歌もうまい(←当たり前です)のでドキドキです。普段見慣れている外国のお姫様より、こちらのほうが私のタイプだと分かりました。(←そんなことは誰も聞いていない。)全般につうの歌は、実にのびやかに感情を吐露するように作ってあるように思えます。この作品は、何をおいても「つう」を演じるヒロインのためのオペラのように思えます。
運ず(谷友博さん)と惣ど(島村武男さん)は、ある意味、表現が難しい役なのかも知れません。悪役なのですが、脚本自体が二人のキャラを特に立たせていない憾みがあるような気がします。率直に言って、この短い作品の中では、どうしても主役の引き立て役に留まってしまうように思えました。とはいえ、運ずは比較的気が弱く純朴で、惣どはより悪人っぽいというのは、『指輪』のファゾルト・ファフナーコンビみたい(良くあるパターンですが)だなあと考えつつ聴いておりました。
ワーグナーといえば、團伊玖磨の『夕鶴』の音楽は、楽劇様式そのものだなあと思いました。原則として明瞭なカデンツを作らないまま「移行の技法」で進行していく無限旋律ふうの作品です。ただ「ワーグナー風」なのは形式の面だけで、音楽そのものは「五音音階」風の音調や「わらべ歌」風のリズムで、いかにも日本的な感じになっています。何と言っても特筆すべきはその抒情性で、それゆえにこれだけ人気のある作品となっているのだなと得心しました。とはいえ、一方では、その抒情に耽溺したり、過度なセンチメンタルに陥らないように配慮している点が見事なようにも思えました。オケの編成の小ささとも相まって後期ロマン派風な重さはありません。
初めて聴いた私が不思議に感じたのは、ところどころヤナーチェクの音楽に似ているように思えたことです。『イェヌーファ』を思わせる響きやリズムが多々現れるのですが、とりわけ親近性を感じたのは、第1場の最後の方で、つうが布を織る決心をする前あたりの音楽です。当時ヤナーチェクのオペラは相当マイナーだったはずなので、これは偶然の一致に過ぎないかも知れません(あるいは私が聴いていないロシアオペラの影響かも)が、日本人の音楽が「モラヴィア(現チェコの南東部)風の音楽」に近くなるのは、とても不思議なことだと思います。言葉の特徴に原因があるのかも知れません。
ところで、木下順二が戯曲を書き團伊玖磨が作曲して以来、現代まで相当な時日を経過していますので、作品の台詞などにはかなり時代遅れな面もあるようにも思えます。例えば、つうが「お願いします」と四方に土下座したり、「お金」「お金」と親の敵のように(?)何度も繰り返すのは、少なくとも私にはかなり違和感があります。とはいえ、普遍的なテーマは昔も今も何ら変わっていないように思えて、それは私には「幸福の到達不可能性」みたいなものかと思います。
おそらく作曲当時も、これを見た観客が「幸せってなんだ?」と思ったはずなのですが、現代人(今日は若い人はいつもにも増して少なかった気がしますが・・・笑)が見てもやっぱりそう思うわけで、その満ち足りなさだけは日本社会は何ら変わっていないような気がします。「さよなら〜」と去っていくつうは、去ったきり帰って来ません。腰越さんの愁いにみちた細い声(この表現は逆に外国人歌手は難しいかも知れない)が表現する喪失感が後々まで尾を引く感じです。
さて、話題を変えて、「人間に変身するヒロイン達」とタイトルをつけた理由は『夕鶴』はもちろん、私が最近聴いていたオペラは、なぜかみなそういうテーマであることに気付いたからです。『影のない女』の皇后はガゼルから人間の姿に変身しますし、ドヴォルジャークの『ルサルカ』では水の妖精が人間になります。そして、それぞれ人間の男性と結婚するのですが、夫婦はみなそれぞれに悩みをかかえています。さらにダメ押しで、もう一つ似ている話は『ローエングリン』で、これと『夕鶴』の類似性は誰もがすぐピンとくると思います。約束を破ると元の世界に帰らねばならないというプロットがそっくりだからです。(なお、ローエングリンは人間だが神に近い神聖な存在です。)
これらを比較してみると、悲劇的結末は『夕鶴』『ルサルカ』『ローエングリン』で、ハッピーエンドは唯一『影のない女』だけです。昔話をベースにすると、こういうカップルは別れるのが普通なので、実は『影のない女』はそこをうまくひねっているようにも思えてきました。たまにはハッピーエンドがあってもいいじゃん・・・みたいな。
なお、こういうプロットの昔話は世界各地に分散しているのが面白いところで、学問的には「異類婚姻譚」というらしいです。日本におけるこういう昔話の特徴は「動物と人とが近い存在にあること」らしいのですが、確かに『夕鶴』はその通りです。(この点に興味のある方は下記をどうぞ。アカデミックですが、けっこう目からウロコな話が多いので、こういうテーマが好きな方はオススメです。ちなみに著者は征爾氏の兄上だったと思います。)

昔話のコスモロジー―ひとと動物との婚姻譚 (講談社学術文庫)

昔話のコスモロジー―ひとと動物との婚姻譚 (講談社学術文庫)

最後になりましたが、『ルサルカ』の第3幕を本日アップしました。
http://www31.atwiki.jp/oper/pages/781.html
あとは、例によって「あらすじ」と「コメント」をアップすれば終了です。これは今年11月の新国立劇場の演目ですので楽しみです。これは『夕鶴』と負けず劣らず抒情的なオペラですが、最近私は第3幕のフィナーレで泣けてしまいます。(『夕鶴』でも一部ウルウルになったが、これは人に言わないようにしよう・・・。言ってますが。)ルサルカの最後のモノローグは歌詞の意味がわかったほうが断然いいと思います。私の訳は、ある程度意訳ですが、やはりこの方針で良かったかな?と思います。まだまだ先の話ですので、いずれ時期が来ましたら、お正月に『月に寄せる歌』で試みたようにチェコ語入りの解説もしてみたいところです。