「黄昏」(3)〜ト書きと頭韻〜

「朝」から「晩」まで『黄昏』になってしまいました(笑)。とはいえ、雨の中でしたがスーパーに買い物に行き、「冬ももうすぐ終わりだなあ」と「牡蠣」を買ってきて「カキ鍋」をやってみました。値段のわりに良いカキで、とても美味しかったのですが、残りを「雑炊」にしようとした時、家人が鍋にひっついていた「コルク製」の「鍋しき」ごと火にかけてしまい、焦げて大騒ぎになりました。あぶなく家が「ヴァルハラの終末」になるところでしたが・・・。

さて、冗談はさておき、「黄昏」です(笑)
(しつこいですが、便宜のため↓)
http://www31.atwiki.jp/oper/pages/202.html

今日訳した箇所は、いろいろと面白い部分があったので、メモ的に記していきたいと思います。箇条書きにしていきますので、興味のある部分だけ読んでくださいね〜!

・「明るすぎる」ジークフリート(グンター)
原文Du überfroher Held!ですから、ちょっと意訳です。それはともかく、ワーグナーは「(軽い?)そううつ病」ではないかと私は思うので、彼自身も同じことを言われたのではなかろうか、と私は勘ぐってしまいます。そういう意味で、面白いセリフです。マンは、「苦悩と偉大」の中で「うつじゃない?」とハッキリ言っていますが、これはさすがです。これに対して、ジークフリートはグンターに「暗いなあ」と言うところが笑えます。
・「ぼくの若いころの昔話」(ジークフリート
「若いころ(正確には「若い日々の」)」と言うのですが、そんなに成長していないような気が?いったい『ジークフリート』の時点から何年後なのでしょう?この「時間経過」については、私は、枝葉末節ではなく、考えるべき点だと思うので、またいずれ触れたいと思います。
・小鳥の歌
ジークフリート」でもそうですが、小鳥はジークフリートに直接歌いかけているわけではありません。ですから、人称は三人称で全て「彼」です。小鳥は勝手にジークフリートのウワサ話をしているだけで、聴かれているとは思っていない。色々な演出を見ると気付かなくなりがちですが、台本を読む限り、それが一番オーソドックスな解釈ですね。
・小鳥の「ラララ」
ジークフリートが「カバー」として歌う「小鳥の歌」では「Laller」という言葉が印象に残りますが、これは辞書にはない言葉です。(独独辞典にもないですね。)おそらく一番近いのは「Lallen」ですが、これは赤ちゃんがしゃべる言葉で、英語の「ララバイ」というのは同根じゃないかと思います。酔っ払いの言葉も指すようなので、「ろれつが回らない」という訳もあるのですが、ちょうど「ラ行」なので、日独のこの一致はとても面白いです。
・頭韻について
私は、頭韻について良く理解している訳ではないのですが、「これは頭韻だろうな」という部分があるので、3箇所だけは、その「ダジャレ感(?)」を反映しました。そのうち最初の2箇所は近接して出てきます。
まずは、
Notung streckte den Strolch!ですが、
単に、「シュト」だけですが、けっこう効果的な感じなので、私は「悪党め!ノートゥングで、のばしてやったよ!」と「の」を重ねたつもりですが、あえて言わなければ分からないですよね。
次は、その直後、
Was er nicht geschmiedet,schmeckte doch Mime!
で、これは「シュ」で重なっているのですが、わりと良くあるパターンではあります。ここの訳は、ハーゲンの「おやじギャグ」を出してみたのですが、どうでしょうね?対訳をご覧いただければと思います。
・「ト書き」の面白さ
ワーグナーの「指輪のト書き」はとても面白いです。ここには演出を示唆するヒントがいっぱいあります。「原点に返る」という意味で私は「ト書き」を注意深く読んでほしいと思います。ワーグナーにとって「指輪」は特別だったのではないでしょうか?(だからこそ「ライフワーク」なのかもしれません。「トリスタン」「パルジファル」のト書きは、これほど面白くはないです。)
例えば、ジークフリートは、ハーゲンに勧められた盃を「物思いに沈み(gedankenvoll)ながら、その盃を見つめ、ゆっくりと飲む」のですが、それはなぜなんでしょう?
おそらく、ジークフリートは「過去のこと」を一生懸命に思いだそうとしているのではないでしょうか?だからこそ、ハーゲンが差し出す飲み物を、疑惑を感じつつも飲み干さずにはいられないのだと思います。ここには、明らかに「トリスタン」との類似があり、トーマス・マンの言い方を変奏すれば、「ハーゲンの差し出す薬は解毒薬である必要はなく、水でも良かったのだ」と言えるかもしれません。
・頭韻第2弾
物語がクライマックスに行くに従って、ブリュンヒルデの「Br」にひっかけた頭韻が多発します。それは次の「小鳥の歌のカバー」の末尾に始まります。「durchschritt' er die Brunst,weckt' er die Braut -Brünnhilde wäre dann sein!」
短い間(12語)に、3回もBrが出て来ます(ブルンスト、ブラオト、ブリュンヒルデ
そして、ブリュンヒルデとの愛を歌う決定的なシーンでは、余りにもわざと印象的に使っているので、それは日本語に反映させました。
oh, wie mich brünstig da umschlang der schönen Brünnhilde Arm!
「ああ!そしたら、ブルンと巻きついて来たんだ!あの美しいブリュンヒルデの腕(かいな)が!」
brünstigという言葉は、あまりにエロティックな感じですが、あえてこれを使ったのは「頭韻」のゆえでしかないと私は思います。

さてさて、いよいよハーゲンのセリフに行くのですが、また章を改めます。