黄昏第3幕(2)〜ジークフリートの最後の歌〜

続きです。さきほど「単語に過剰な意味を込めている」(でも悪い意味ではないですよ)と書いたので、実地検証してみます。

http://www31.atwiki.jp/oper/pages/202.html

ジークフリートの最後の歌」のそのまた最後の4行ですが、
Ach! Dieses Auge, ewig nun offen!Ach, dieses Atems wonniges Wehen!Süsses Vergehen - seliges Grauen:Brünnhild' bietet mir - Gruss!
拙訳は、「ああ!この眼・・・今とこしえに見開かれて!ああ!この息吹き。晴れやかな風のように!とろけるように吹き過ぎて行く・・・優しいおののき・・・ブリュンヒルデが、私に・・・手を振る!」

「晴れやかな風」、「とろけるように」、「優しい」、「手を振る」・・・この辺りが、正直なところ、すべて意訳です。しかし、まさに、ここが訳しどころで、「喜ばしい」とか「甘い」、「幸せな」、「あいさつ」では、どうにも日本語として意を尽くさないような気が私にはします。

また、Vergehenは「死ぬ」「消滅する」ですから、これも意訳ですが、ここは、その前の「呼吸(Atem)」の「風(Wehen・実はこれも意訳。通常は「風が吹く」)」を受けて、その風が「吹き去る」としたのです。

そして、この「吹き過ぎて行く」は、ジークフリート自身が「死ぬ」ことにかかり、次は「seliges Grauen」で、これはジークフリート自身が感じる「安らかなおののき」です。
つまり、この短い歌詞の中で、ジークフリートは、ブリュンヒルデの息吹きから徐々に視線を移動させ、自らの「愛と死」をほんの一瞬見つめるわけですが、音楽はそこでプッツリ切れます。
この尻切れトンボ感は、いつ聴いてもスゴイし、感動的だと思うのですが、どうでしょうか。

ところで、ご存知の方も多いと思いますが、実はこの場面のセリフは、「指輪」の一番古い部分に属しているはずです。地層に例えるなら、一番深くて古い地層を見ているはずです。
いつも疑問に思うのは、「ならば音楽はどうなんだろう?」ということです。「黄昏」はセリフは一番古いのに、音楽は一番最後に完成されています。
ですが、これは私の勝手な思いですが、「音楽の少なくとも「枠組み」は、頭の中で最初にでき上がっていたはずだ」と思うのです。(何ら学問的裏付けがないので本当の印象批評です)
というのは、この一連の場面は、ものすごく淀みない自然な流れなのです。だとすると、『ジークフリート』の「小鳥の歌」も「ブリュンヒルデを目覚めさせる場面」もその時に出来上がっていたことになりますが、どうでしょうね?
もし、何かご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えていただきたいところです。

さて、今日、訳して気が付いた点を・・・と思ったら、すでに長くなっているので、またまた稿をあらためます。
どうも、「黄昏」は語ることがありすぎます。