黄昏第3幕(1)〜「聖なる花嫁!」そして「文学としての指輪」

最近、「ジークフリートの最後のアリア」(「聖なる花嫁よ!」から始まる「辞世のアリア」です)を、Youtubeやら自分のCDやらで繰り返し聴いていたら、ラッシュの電車の中でも頭から離れなくなり、どうしようもないので(笑)、今日訳し始めたら、その前の「昔語り」も含めて、一気に訳してしまいました。

↓こちらです
http://www31.atwiki.jp/oper/pages/202.html

それにしても、我ながら、あらあらあら、という勢いで、過去最高のスピードでした。自分でもびっくりなのですが、この部分はいつも聴いている上、あまり難しい単語もなく、ワーグナーにはよくある「文章のつながりが分かりにくい」ところも全くありません。
とはいえ、「仕事がはかどる時は後で読み返すとダメに思うことが多い」とトーマス・マンだったかヘルマン・ヘッセだかが書いていたので、いつもは冷却期間を置くようにしているのです。ですが「ノートゥングは熱いまま打て」ということもある(違うか?)ので、今日は若干見直しはしましたが、そのまま載せてみることにしました。

やはり白眉は「聖なる花嫁!」です。たかだか11行の歌詞ですが、本当にいい歌です。歌詞も好きです。ワーグナーの歌詞はダメだという人がいるのですが、なぜでしょう?日本人からすると、いずれにせよ他言語なので、実は私にはコメントのしようがないのですが、ドイツの昔の文化人にもそういうことを言う人がいて、いわく「ワーグナーは、(音楽もダメだが)歌詞が荒唐無稽だ」というわけです。
(でも、私は恥ずかしながら、ゲーテとかヘルダーリンとかがなぜ「良い詩」なのかも、実は感覚としてピンときません。さっきのヘッセの詩も「良い詩」なんでしょうが・・・)
これは、もうそう感じるのだからどうしようもない世界ですが、トーマス・マンは、例の『リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大』の中で、「言語作品として優れているのは、『指輪』と『ローエングリン』だ」とはっきり言い切っています。昨年の夏、「トリスタン」を訳しながら、これを久しぶりに読み返した時、私としてはホッとした気持ちというか、「もう何も語ることはあるまい」という気になりました。
(今、岩波の訳を見ていたら、「言語作品として見た場合、ヴァーグナーが生み出し得たものの中でおそらく最も純粋で高貴で美しいものであります」と最大級の賛辞です)
なにせ、ゲーテ以来のドイツ最大の文豪(個人的な好き嫌いはともあれ、一応そういうことになっています)が、ほかならぬ「言語作品」について語っているのですから、信用するしかありません。
ついでに、面白いのは、「トリスタン」や「パルジファル」「マイスタージンガー」など後期の作品については、彼はそう言っていないということですね。思うに、「ローエングリン」と「指輪」の台本は、ワーグナーの30代半ばから40代前半にかけての作品で、前者は韻文を使い、後者は必ずしもそうではないのですが、韻文をベースに、新たな表現形式を模索しているように思えます。
それに比べて、例えば「トリスタン」になると、音楽の性格もそうなのですが、韻文の世界を完全に脱け出しているように思えます。つまり、もはや単体としての「詩」を目指さなくなったということかもしれません。(実は違っていて「単に詩がヘタだった」という意見もありそうで、その印象がメジャーなような気もしますが、ならば「なぜヘタなのか?」という観点も必要かもしれません)
ですから、マンの言う「言語作品」として台本を見ると、「指輪」に軍配が上がってしまうということはあり得ます。

えらく横道にそれましたが、この11行、ワーグナーお気に入りの単語が、ずらずらずらっと出てきます。selig , wonnigなど、いつものムード系の形容詞はもちろん、Atem , Vergehenなんかも好みの単語ですかね。これらは、すべて「トリスタン」でも多用され、肝心な所で出て来ていたように思います。
しかし、実は、こいつらが訳す時に悩みの種で、どうしようかいつも考えてしまうのです。もちろん、逆に、これをどう訳すか考えるのが楽しみで、私はこんなことをしている側面もあります(笑)

これは推測ですが、さっきの「ワーグナーの詩が、ネイティブにはヘタに思えるワケ」の一つは、どうもこうした言葉にえらく過剰な意味をこめているからではないかと思います。
ですから、ワーグナー作品は、きちんと調べてないですが、おそらく「ボキャブラリー」自体は少ないように思います。またこれは、裏返しに見ると、まさにワーグナーが「音楽」を付けることなしでは詩を発想しなかった、ということかもしれません。

・・・また横道にそれましたが、この歌詞、もうひとつワーグナー風なところがあって、それは、この中でジークフリートが、自分自身をer(彼)と表現することです。だから、ブリュンヒルデを目を覚ましに来たのも「彼」、兜を脱がせたのも「彼」、キスしたのも「彼」のまま終わりかけ、最後の最後で、ついに「私(mir)」が出てきます。
これは、素晴らしく効果的なように思えるのですが、いかがでしょうか?(と、ドイツの知識人に聞いてみたいところです。できれば偏見のない人に。)
「自分」を「彼」(または彼女)にする手法は、パルジファルにもあったと思いますが、とりわけトリスタンで多用されていたと思います。思うに、モノローグが多いワーグナーでは、この手法を使わないと、話しぶりが単調になりすぎるテクニカルな面があるのでしょう。とはいえ、この「辞世の歌」では、そういうテクニカルなものを遥かに超えた効果がある、と思います。
最後の最後の一人称・・・今回は、それを日本語で「私」としてみました。これは日本語ならではの話なのですが、ずっと「ぼく」だったジークフリートは、ここで初めて「私」になるという思いを込めてみました。死の間際の一瞬だけ、良くも悪しくも(黄昏では「悪しくも悪しくも」か?)子供だったジークフリートが大人になる、ということです。

ところで、実は、この手法は『パルジファル』を訳した時に使っていて、パルジファルは最初は「おいら」、クンドリーにキスされてからは「ぼく」、第3幕からは「私」としました。
ジークフリートはどうしよう?と思ったのですが、どうも彼の行動は、第3幕においても、あらゆる意味で「大人じゃない」のです。したがって、どうしても「私」がはまりません。したがって「ぼく」にしたという面もあります。これから「指輪」を順次訳したいと思っているのですが(いつ終わるんでしょうね・・・?)、私のジークフリートは、ずっと「俺」か「ぼく」で、唯一の「私」は、これっきりでおしまい、というところですね。

さて、さらに気付いたことがあるのですが、えらく前ふりが長くなったので、稿を改めます。