「パルジファル」公演に向けて(1)〜パルジファルの仏教的側面

いよいよ、新国立劇場の『パルジファル』公演が近づいてきました。かなりワクワクしています。
今回、オペラ対訳プロジェクトの「訳者より」に加筆し、「訳者より」の後篇としました。

http://www31.atwiki.jp/oper/pages/456.html#id_5cdcaa9d

パルジファルのタイトルページは以下の通りです。)
http://www31.atwiki.jp/oper/pages/165.html

サブタイトルは「クンドリーの救済をめぐって」としているのですが、パルジファルの仏教的な側面を、作品内在的に考察したものとなっています。この作品の仏教的な雰囲気については、つとに指摘されるのですが、それがどのような意味を持っているかは私自身突き詰めて考えてみたことがなかったので、今回は良い機会となりました。
今日まで知らなかったので、偶然としか言いようがないのですが、今回の公演の指揮者であり、芸術監督の飯守泰次郎氏によれば、ハリー・クプファー氏の演出は「哲学的で、作品の仏教的な面を強調した演出になりそうだ」とのことです。
また、劇場のサイトでは、グルネマンツを歌うジョン・トムリンソン氏のインタビューが掲載されており、その中に以下の記載があります。
(このページ、急に音が出ますが、前奏曲の冒頭が流れるのは、けっこうグッドですね。) http://www.nntt.jac.go.jp/opera/parsifal/

私の考えでは、「パルジファル」においてキリスト教はオペラの基本になる〈神話〉として用いられているのであり、「リング」における北欧神話と同じ位置づけだと言えると思います。その本質はキリスト教のメッセージではなく、特定の宗教を超えた普遍的なスピリチュアリティを扱った作品だと思います。
またよく指摘されるように、「パルジファル」には仏教的な考え方の影響も見られ、とりわけ最後の場面には輪廻の思想も感じられます。そして何よりも「パルジファル」の音楽がそうしたスピリチュアリティに満ちているのです。

私も同感です。(ただ輪廻の意味合いは私の意見とは逆かも知れません。後述)
これだけ記載があると、今回のパルジファルは、「仏教三昧」なのかも?と思います。私のコメントも、たまたまですが、グッドタイミングだったなあと思います。
劇場のHPの別の箇所を見ると、来週の祝日(9月23日)には、パルジファルのオペラトークがU-stream配信で見られるらしいので、ぜひ見ようと思います。チケット完売だからそうなったのかも知れないですが、とても有難いです。
ところで、トムリンソン氏のコメントについてですが、先の引用とは別の所で、氏はこう言っています。

─騎士団はその後、どうなると思いますか?

T パルジファルが聖槍を持ち帰ったことで聖杯と聖槍―すなわち陰と陽―がふたたび一緒になり、騎士団の病は癒えますが、私の考えではオペラの結末は、騎士団というエリート集団の将来を強化するものではないと思います。究極的には、パルジファルが騎士団にもたらすメッセージというのは、騎士団は自分たちのためだけの閉鎖的な社会であってはならない、ということではないでしょうか。

 むしろ「ニーベルングの指環」の最後で神々たちが滅亡したのと同じように、「パルジファル」の騎士団もいずれ滅ぶのではないかと思います。すなわち世界が存続するためには神々が死ななければならないのと同じように、聖杯の騎士団は滅びますが、そのスピリチュアルな真実はずっと受け継がれていくのです。

この意見は、現在のオーソドックスな意見かなと思います。「聖杯騎士団」というのは、アンフォルタスに儀式を強要する所に見られるように、どうしても閉鎖的なエリート集団に見えるので、こうした解釈が主流となります。また、それは、戦前の解釈への否定という側面もあると思います。
ただ、以前から私が疑問に思っていたのは、仮にそうだとすると、なぜワーグナーがこの作品をファイナルアンサーとして提示したのか分からなくなるということです。やはり究極のハッピーエンドとして解釈すべきではないか、という気がしてきます。
実は、その感を深くしたのは、一昨年9月の二期会の上演での演奏(これも指揮は飯守氏)でした。このフィナーレの音楽の素晴らしさというのは、ライブでは想像を絶するものがありました。おかげで、クラウス・グート氏の演出は、パルジファルが独裁者になってしまうという描き方であったにも関わらず、音楽に引きずられて良い方向に解釈したくなってしまいました。
さて、「訳者より」後篇で、私は、パルジファルブッダ(悟りを開いた人)として捉える解釈を提示しています。その対比で行くと、聖杯騎士団というのは初期の仏教教団に比せられるのかな、と思います。その意味では、パルジファルやクンドリーが輪廻から解脱したのと同じく、騎士団にも悟りを開くという方向性が与えられているように思えます。
まあ、これこそ多様な解釈があっていいと思うのですが、パルジファルと騎士団がまた同じ負のスパイラルに陥っていく(輪廻を繰り返す)と思うのが現在の主流の解釈で、私はそれとは反対に、この輪廻からの解脱は可能だという明るい未来が、やはり本来の作品のメッセージだと思います。クンドリーを中心に思考していくと、そうでなければ彼女が救われないではないかというのが私の意見です。(グート氏の演出では、クンドリーは荷物を畳んでパルジファルと決別しましたから、これはこれで筋の通った解釈ではありました)
とはいえ、一方で、戦前のようなコチコチにカトリック儀式的な解釈も、キリスト教の枠内に制限されているという意味で、作者の真の意図を実現していないのは勿論です。
ワーグナーの作品世界というのは、「放っておくとどんどん事態が悪くなる」というネガティブ感があり、この作品もそうなのですが、だからこそ、そこから脱出するという壮絶なエネルギーが人に感動を与えるのではないかと感じます。それは音楽のみならず、脚本においてもそうだと言うのが、私の感想です。
パルジファル」は、解釈の余地が極めて広い作品だと思うので、いくらでも話ができてしまう面があります。公演の前に、もう少し書きたいなと思っています。