リヒャルト・ワーグナーとロマン主義的世界観(第3夜)

8 ブリュンヒルデ!聖なる花嫁よ!(『神々の黄昏』第3幕) 
陰謀により「忘れ薬」を飲まされ、ほんとうの妻ブリュンヒルデのことを忘れていたジークフリートは、背中に槍の一突きを受けて絶命する最後の瞬間、ついにブリュンヒルデへの愛を思い起こし、「眠り姫」のブリュンヒルデに口づけして目覚めさせた瞬間を思い起こす。この曲の最初のほうの音楽は、その時の「ブリュンヒルデの目覚め」の音楽の、ほぼそのままの再現。
しかし、無情な回転を続ける歯車を巻き戻すことは、もはやできない。ジークフリートの唯一の弱点が背中にあることを陰謀者に教えたのは、愛していた夫の裏切りに強い憎しみを抱くブリュンヒルデその人なのだから。
「誰があなたの眼を閉ざしたのだ・・・」とのセリフと音楽が泣ける。ジークフリートは騙されただけなのだが、それでもブリュンヒルデに罪を犯したのだろうか?しかし、台本を読むと、このシーンが新約聖書イエス・キリストの受難と重ね合わされていることが分かる。したがって、ジークフリートをおとしめるような演出では、ワーグナーの意図を歪めることになるだろう。
ジークフリートのテーマ」のファンファーレがブラスで奏でられるが、もはや輝きの時は遠くに去り、音楽は急にブチッと切れてしまう。事終われり・・・。ジークフリートブリュンヒルデの幻影を見ながら、息を引き取る。
このあと『神々の黄昏』の大団円では、ブリュンヒルデが、ジークフリートもまた、神々の犯した悪事の犠牲者だったと悟り、自らを燃やす炎で天上の世界を焼き尽くし、その廃墟から生まれる新しい世界への希望が表現される。このシーンの「カタルシス」には、とても感動するのだが、これと現実がごっちゃになると非常に危ない側面がある。その後、ナチスに利用されたことはワーグナーの意志とは全く関係ないが、彼の作品がそのような「毒」を秘めていることは事実だと思う。
 しかし、一方で、その危うさは、19世紀のドイツの政治的現実の空しさから個人の内面世界へと沈潜したドイツロマン主義運動が本質的に内包している危うさにほかならない。トーマス・マンは、1925年の長編小説『魔の山』の第7章で、そのことを「腐りゆく直前の果実」という印象的な比喩で指摘している。この文章でマンは、シューベルトの歌曲「菩提樹」を引き合いに出しつつも、明らかにワーグナー作品についても語っているように思える。これは、ドイツ・ロマン主義の音楽、とりわけワーグナー作品を真に理解している人だけが書ける、優しさと鋭さが混交した感動的な文章だと思う。

リンク先は、マックス・ローレンツの1944年の歌唱。
http://www.youtube.com/watch?v=1XImxjapFI4
例の、フォークト氏=ジョナサン・ノット指揮バンベルク交響楽団のCDにも収録されていますので、ぜひお聞きください。
また、コペンハーゲンリングのアナセン氏の歌唱もよいです。これは、演出も分かりやすくてグッド。

9 スクリャービンエチュード 嬰ハ短調 作品42-5」 
本来ならば、「聖なる花嫁よ」の後には「ジークフリートの葬送行進曲」が続くが、私見では、この曲の後半ではオケの大音響が「騒音」として扱われることにより「罪なき者の死」という不条理が表現されているので、賛否の分かれる挑発的な音楽になっている。そのため、代わりにスクリャービンの練習曲にリンクしてみたが、なぜかとてもハマるような気がする。
スクリャービンは、ロシアの作曲家だが、これはかなりドイツロマンティシズム濃厚な一曲。それとも「ロシア神秘主義」と言うべきか?私はなぜかこの曲を聴くたびに、「天使が天に帰ろうともがいているのに帰れない」というイメージを抱いてしまう。スクリャービンは聴覚イメージと視覚イメージの融合を目指して実験的な音楽を作っていたので、何らかの視覚を呼び覚まされることに不思議はないのかも?
 最初のテーマは、「モチーフ」にすぎないのに、それが少しずつ表情豊かなメロディーに変容していくプロセスが美しい。このメロディーは、すごく「シューマネスク」かも?作品の精神は、まさに「ロマン的心情」なのだが、ここまでストレートに表現している曲も珍しいと思う。

伊藤恵さんの演奏で、この曲のあまりの素晴らしさに瞠目してしまった。Youtubeのリンクは、amanoyuukoさんの演奏。
http://www.youtube.com/watch?v=__2DxamwoY0
  
さて、200歳記念日まで、あと3日に迫ってきました。明後日、当日の前夜祭として「パルジファル」で最終回の予定です。