愛の楽しみと苦しみ〜パルジファル対話編最終回

来週は二期会パルジファルですね。対談最終回です。アンフォルタスを語らないわけにはいきません。

ヨハン)トマスさんの「パルジファル訳者コメント」http://www31.atwiki.jp/oper/pages/456.htmlに、ワーグナーが、トリスタンとアンフォルタスを重ね合わせて考えていたとの記述がありますね。確かに、第3幕のトリスタンとアンフォルタスとはよく似ていると思います。
アンナ)ですが、異なっている面もあるように感じます。
トマス)そうですね。まず二人の共通点からいくと、二人ともSehnen(「あこがれ」もしくは「欲望」)というものを問題視して、それを呪うということにあります。このSehnenがキーになるタームです。
ヨハン)Sehnenの訳しかたが難しいですね。「あこがれ」なら良さそうですが、「欲望」だと悪い意味に感じられます。
トマス)本来、善悪の意味はないはずなのですが、どうしてもそうなってしまうのが厄介です。
アンナ)トリスタンはこう叫びますね。「死にながらもあこがれるのであって、あこがれのために死ぬのではない」(「トリスタン第3幕」動画対訳http://www31.atwiki.jp/oper/pages/2313.html 35分42秒)
ヨハン)先ほどの話から言うと「死にながらも欲望するのであって、欲望のために死ぬのではない」とも訳せます。
トマス)大事なことは「あこがれ」こそが自分にとって最も重要なものだと、その時初めてトリスタンが気づいたということにあります。
ヨハン)その時初めて・・・ですか?それまでは気づいていなかったということですね。
トマス)トリスタンがこの時気づいたことは、この「あこがれ」が自分の生の意味そのものだということだと思います。だから、その前では、あらゆる世俗の規範は消えてしまうし、消えていいのだということです。それまでのトリスタンの苦しみは、彼が最高の英雄として振る舞わねばならなかったということです。
ヨハン)それが、彼をしてイゾルデとの恋から遠ざけようとしているのですね。
アンナ)私が不思議に思うのは、トリスタンはそんな余計な気を遣わずに、単純にイゾルデを妻にできたんじゃないかということです。自分の気持ちに正直になれない人だな・・・。もちろん敵同士の間柄とか色んな伏線があるのですが。
トマス)そのとおりです。だからこそ自分の「あこがれ」の至上さに気づく先ほどの瞬間は崇高ですね。そこから音楽も次第に和らいでいきます。(37分30秒あたりから)ところが、しばらくすると、これはアドルノの言い方ですが「ゴツゴツした音楽」がまた戻ってきます。(38分24秒あたりから)それほど、トリスタンは「社会の束縛」を強く受けているということですかね。音楽的にも、セリフ的にも、このあたりが最もアンフォルタスとの共通点を感じるところですね。
アンナ)ですが、いったん気絶してから、クルヴェナールの心配そうな小声の中で、トリスタンの動機が木管楽器だけで出てくるのが素晴らしいと思います。(43分50秒〜)なんという切なくも癒される世界でしょう・・・。「この室内楽的なところこそ、ワーグナーの白眉じゃんか、ここを聴けよ、ここを!」と思います。
ヨハン)たしかに・・・。そこからさらにイゾルデを想う優しいムードの音楽となりますね。(47分4秒〜)
トマス)トリスタンは、この瞬間、ようやく束縛を離れて、イゾルデを夢見ながら最終的な癒しを得ることができたのだと私は思います。そこがアンフォルタスと決定的に異なる点ですね。トリスタンは最終的には自分自身の力で、自分の生き方に意味を与えたということだと思います。
アンナ)一方、アンフォルタスは自分自身では自分の生に意味を与えられない・・・。彼においては、トリスタンの苦しみがより大きくなっているように思えます。二人の苦しみは基本的に「あこがれ」もしくは「欲望」を自分では如何ともしがたいということなのかと思います。ですが、それを持っていることにこそ「人が生きる意味」があるのではないでしょうか?アンフォルタスはなぜ苦しむのでしょう?
トマス)男性の女性に対する「あこがれ」は、ロマンティシズムとエロティシズムとがくっついていると思うのですが、トリスタンにおいては、この両者の相克は全くないと思います。彼に罪があるとすれば、それは自分の「あこがれ」を世間が罪と見なすだろうという程度のことです。ただ、それは、トリスタンにとっては重要なことだったのですが・・・。一方、アンフォルタスの「あこがれ」は、世間以上にまず「自分自身」が罪と見なしているということです。
ヨハン)「欲望が罪だ」ならまだしもわかりますが、「あこがれ」もしくは「恋」といってもいいかもしれませんが、それが「罪」だという状況は、私にはどうもよくわからんですね・・・。
トマス)そうですね。そこがポイントだと思うのですが、アンフォルタスがクンドリーに出会ったとき何が起こったか、ということを考えるべきだと思います。ストーリー的には「黒魔術師クリングゾルに使嗾された絶世の美女クンドリーに出会ったアンフォルタスは、その美しさに誘惑されて、大切なキリストの槍を奪われてしまう」ということですが、素直に考えると、それは「恥ずかしいこと」「面目を失うこと」であっても、そのことに深く悩むことではないような気がします。
ヨハン)まあ・・・男なら普通は誘惑されるでしょうし・・・(笑)
アンナ)その点は、よくわかりますが・・・。
トマス)う〜ん。それもあるのですが、セリフを読むと分かるのですが、アンフォルタスの感情は「世間的に恥ずかしい」とか「後悔している」とかではないのですよ。そういう感情ではありません。彼は「今の自分自身の痛み」で苦しんでいるのです。
アンナ)たしかに「いままさに」苦しんでいる感じですね。トリスタンと同じような「恋の悩み」なのでしょうか?
トマス)う〜む。違うものですね。ここからはかなり私だけの意見かも知れませんが、アンフォルタスは、クンドリーにエロティシズムだけしか感じなかったのではないでしょうか?彼は、クリングゾルの「歓楽の園」を滅ぼしに来たわけですから、クンドリーが「誘惑者」であることを知っているわけです。それにもかかわらず彼女に抵抗できなかった。ですが、さきほどの話のように、男性にとって美しい女性の魅力というのは抵抗できないのが普通だと思います。だとすると問題の所在は、アンフォルタスの悩みというのは、クンドリーに対して精神的な愛情ではなく肉体的な欲望しか感じなかったということに帰着するのではないかと思います。
アンナ)つまり、アンフォルタスがクンドリーをきちんと愛することができれば、アンフォルタスは「呪い」を受けずに済んだということでしょうか?
トマス)それも一つのストーリー展開としては考えられるかも知れませんね。ところが、私が思うには、アンフォルタスは心の中ではクンドリーを娼婦として軽蔑しながらも、彼女に感じたエロティシズムには抵抗することができなかったのです。これは一般人なら、まだ耐えられることかも知れませんが、アンフォルタスにとっては致命的なことです。第1幕の台詞にあるように、彼は「聖なるものを守護する身でありながら欲望(エロティシズム)に負けた」のですから。
ヨハン)でも、逆に言えば「聖なるもの」こそがアンフォルタスの「倒錯」を生み出しているようにも思えます。
トマス)そのとおりで、「聖なるもの」の価値を高めれば高めるほど、それをおとしめたいという思いが、彼の中に生まれるのだと思います。エロティシズムは、そもそも禁忌を破る快感ですから、これは自然なことです。ですが、何よりもアンフォルタスにとって大事なことは「クンドリーを精神的に愛せなかった」ということではないでしょうか。第1幕の長いモノローグで印象的なのは、アンフォルタスが「聖杯」ひいては「イエス」を想起するシーンです。
アンナ)歌が中断して、前奏曲のモチーフが流れるところですね。
トマス)「イエスは娼婦をも愛した・・・でも私は愛することができなかったのに、その娼婦に対して感じたエロティシズムに浸った」・・・実はそういう悩みなのではないかと私は思います。やや大胆な解釈と思えるかも知れませんが、方向性としてはそういうことだと思います。
ヨハン)う〜ん。そう考えると、アンフォルタスって、全然いいところがない人のようにも思えますねえ。凡人としては思い当たるフシもありますが、そんなことで悩んでいたらやってられないですよ。
アンナ)でも、パルジファルは第3幕の幕切れ近く、「あなた(アンフォルタス)の悩みのおかげで私は救われました」と言いますよね。そして、第1幕のアンフォルタスのモノローグについている音楽を聴くと、アンフォルタスの悩みには意味があることが説得力を持って迫ってきます。
トマス)アンフォルタスの人物像は現代的ですね。彼の真価は「真剣に悩み苦しむ」ことにあります。ですが、それでは他者との関係性が回復できません。いわば「引きこもり状態」なわけです。
ヨハン)「傷を隠して生きる」生き方もできるはずですね。でも、それではクリングゾルと同じになってしまいますか・・・。
トマス)アンフォルタスには、決して「本当の絶望」には陥らないだけの強さがあるのですが、一人きりではその穴から這い出ることはできない。「ともに悩む存在」すなわちパルジファルの登場なくしては、生きる意味を見い出せないのです。
ヨハン)彼のうちには、自分を罰しようという強い衝動がありますね。
トマス)それは父親であるティトゥレル、そして自分をリーダーとして仰ぐ聖杯騎士団との関係から、「そもそも初めから」出てくるのではないでしょうか。
アンナ)クンドリーにも自分を罰しようとのマゾヒスティックな意志がありますね。彼女とアンフォルタスは、なるほど「合わせ鏡」だなと感じます。
トマス)二人の共通点は「自分は罰せられて当然の存在だ」と思い込んでいることにあります。ですが、それは自分で自分をそう規定しているからです。二人は、Wahn、これは妄想、狂気、虚妄を意味するワーグナーの愛用語ですが、そのWahnという自意識が生み出す罠に陥っているように思えます。だからこそ、彼らが救われるためには他者の存在、必ずしも宗教的な意味ではなくても「救い主」の存在が必要とされるのだと思います。
ヨハン)彼らにとってパルジファルとは何なのでしょうか?
トマス)パルジファルが「愚か者」であるというのは、彼が世俗を離れて育てられてきたがゆえに、さきほどの二人のような「倒錯」から最も遠い存在である、ということではないかと思います。
アンナ)しかし、口づけの瞬間に、彼はついにその倒錯を感じるということでしょうかね?
トマス)そうですね。正確に言うと「倒錯の可能性」ですかね。恋愛感情の中に潜む「エロティシズムの倒錯の可能性」を感じたということですが、それは彼がすでにアンフォルタスの苦しみを見たからです。その瞬間、彼は「最も愚かな者」から「人の苦しみがわかる知者」に変化しはじめるということだと思います。
アンナ)第2幕でも第3幕でも何度も自己否定の言葉をパルジファルは繰り返しますね。
ヨハン)ですが、そこには過度の自己嫌悪は感じられません。何がパルジファルのそのような態度を可能ならしめているのでしょうか。
トマス)その理由はたぶん、第2幕の口づけの瞬間、パルジファルはクンドリーを「本当の意味で愛する」ということですね。それがパルジファルの強さなのだと思います。
アンナ)そう考えると、裏を返して言えば、アンフォルタスとクンドリーがそれぞれ抱えているエロティシズムというのは、すごく深い闇のような気もします。クリングゾルも同じような問題を抱えているような気がしますが、二人の苦しみに比べれば、よほど安易な道を選んだキャラかも・・・。
トマス)難しい点ですね。イエスという幻のような存在が、その三人にそれぞれ影響を及ぼしているのだと思います。彼らは、イエスというすごくすぐれた存在に自分自身を投影するのですが、原理的にそこに到達できないことは宿命づけられている。物凄く深い悩みです。だからこそ共に悩んでくれる「愚か者」が必要なのです。
アンナ)こんなこと言うのもなんですが、どちらかと言えば私は「その悩める三人」のほうに入っている感じがしますね・・・。
トマス)私もそうです。現代人の多くは、だいたいそちらのほうに入っているのではないでしょうか?
ヨハン)そうですかね?ぼくは「愚か者」の部類に分類されそうですが・・・(一同笑)
トマス)パルジファルでいう「愚か者」というのは、すごくいい意味ですから、そう言えればラッキーですよ(笑)
アンナ)話が変わりますが、「花の乙女たち」というのは、「愚か者」といっては言葉が悪いですが、「天然系」という感じがします。
トマス)そうですね。でも、彼女たちはすごく肯定的な存在なんですよ。ワーグナー自身がそのような解説をしているのですが、それを読まなくても、音楽を聴けば誰でも分かりますよね。ここには否定的な意味は全くありません。純朴な子たちなので、彼女たちのキャラとパルジファルには親和性があるのです。
アンナ)でも「娼婦風」な感じの演出も多いですよね。
トマス)このご時世で演出すると、どうしてもそうなっちゃうのでしょうが、本来そうではないということは大事ですね。ちょっと音楽を聴いてみましょう。http://www31.atwiki.jp/oper/pages/2317.html(23分9秒)これを聴くと、なんかホッとしますね。
アンナ)「クリングゾルの魔の城」って、聖杯騎士というお堅い男たちを誘惑するところなので、まず純真そうな可愛い女の子で誘惑するんですかね。たいがいの男はそこで落ちるのですが、それでも落ちない場合はクンドリーが登場するという構造になっているんですかね。
ヨハン)どんな構造なんですか(笑)。それにしても、うん、この音楽はいいですね。
トマス)音楽を聴けば内容が分かりますから、ある意味ワーグナーは分かりやすい世界ですよね。その観点から言うと、『タンホイザー』のヴェーヌスブルクの音楽は「妖艶」です。ですから、こちらは「妖しい女たち」が出てくるのが基本コンセプトではないかと思います。
アンナ)ワーグナー作品というのは、これはよく言われているけど「聖俗なにもかもごちゃまぜ」な感じがしますね。
トマス)すごく舞台受けする部分と、トリスタンやパルジファルの真剣なモノローグが一緒くたになっていますからね。でも、人の生活というのはそういう雑多なものだと思うのに、自分自身が感じるリアル感というものは、微妙にそういうものとズレていて「真剣」だったりもする。ワーグナー作品の面白みは、後期作品に行けばいくほど、そういう心理的なリアリティが増していくことにあると思います。
アンナ)『パルジファル』というのは、アンフォルタスのいう「愛の苦しみ」の諸相を描き、その本質を掘り下げようとしているような気がします。
トマス)そうですね。最初に戻れば、Sehnen・・・つまり「あこがれ」の苦しみですが、そこにはもちろん「楽しみ」もあります。「あこがれの楽しみ」の中に、人の生きる意味があるはずなのに、それは一方では反転して「苦しみ」の原因にもなる。
ヨハン)「あこがれ」を捨てればいいというメッセージなんですかね?
トマス)たとえば仏教というのは基本的にそういう考え方だと私は理解しているので、そうである可能性もありますね。
アンナ)でも、それじゃ、つまらない気もします。というか、そんなこと、そもそも可能なんですかね?
ヨハン)いや〜。ぼくにはできませんね(笑)
アンナ)ヨハンには聞いてないよ(笑)
ヨハン)・・・。
トマス)う〜ん。私もできないけどなあ・・・(笑)。一つ最近感じたのは、『トリスタン』というのは基本的には「愛の楽しみ」を描いた作品で、だからこそ「愛の二重唱」から「ブランゲーネの歌」を経て「愛の死の予告」へと至る第2幕の中盤は、誰しもが「楽しめる」音楽だと思います。終幕の「愛の死」も感情移入して「楽しめる音楽」ですね。
アンナ)逆に『パルジファル』は「苦しみ」の音楽なんですかね・・・。
トマス)そのとおりで、ほぼ全ての登場人物がルサンチマンを背負っているのは確かですね。
ヨハン)だとすると、ニーチェは『パルジファル』のその点に激しく反応したのかも知れませんね・・・。
アンナ)でも、ルサンチマンというのは、ほぼすべての人が何がしか持つ感情ですよね。『パルジファル』の登場人物の苦しみは、もっと根深いマゾヒズムに達していると思います。そこからどうやって人を救えるかというのは、絵空事ではないことですよね。私がいつも思うのは、『パルジファル』というのは、それが音楽の力なのか分からないですが、苦しみを癒すような力があると思うんですよ。これは、だから、誰にでも理解できることじゃない・・・というか、理解できないほうがよほどいいのかも知れません。
ヨハン)しかし、苦しまない人がいるのでしょうか。私にはそう思えないのですが・・・。
アンナ)・・・。
トマス)いまのって、すごく「パルジファルふう」なコメントでしたね・・・。
(一同笑)