信ずる者は幸いなるかな・・・?〜「パルジファル」第1幕の改訂

パルジファル対話篇」を続けようと思っていたのですが、その前に「第1幕」を改訂したので、ご案内です。NHKのバイロイト録画放送もありますし、二期会の公演も控えていますので、今回いい機会かと思って頑張りましたが・・・暑いです・・・。
前半 http://www31.atwiki.jp/oper/pages/166.html
後半 http://www31.atwiki.jp/oper/pages/167.html
そんなに大きくは変えておらず、多くは言い回しの変更だけなのですが、後半の「騎士達の合唱」のところは、かなり大きく手を入れました。これも、意味は同じなのですが、どうもうまい日本語にならないので苦労します。うまい日本語といえば、最後の合唱のセリフ「Selig im Glauben」は、どうでしょうか。私は以前から「信ずる者は幸いなるかな」と訳しているのですが、これは、聖杯騎士たちの何気に高慢なニュアンスをねらっているのですが、うまく伝わりますかね。なかなか難しいところです。ちなみに、手持ちの渡邊護訳では「信仰に祝福されてあれ!」や「信仰の悦び!」となっています。
こちらの訳でももちろんいいのですが、この一句というのは、おそらく「ヨハネ伝」20章29節の有名な「Selig sind, die nicht sehen und doch glauben」(見ずして信ずる者は幸いなるかな)が念頭にあるように思います。これはイエスの弟子の一人であるトマスが、イエスが復活したとの話を聞いて「自分自身の手で、手の釘の跡やわき腹の傷の跡を触らなければ信じない」と言ったところ、復活したイエスが実際にその跡を触らせて、ようやく復活を信じるので、その彼に対してイエスが言ったとされる言葉です。
「信ずる者は幸いだ」というのは安直といえば安直な態度なので、私はこの言葉というのは、かねがねヘンなように思ってきたのです。だからワーグナーもそういう意味で使っていると解釈するのが自然かと思います。
ただ、最近、信じることと見ることとは表裏一体のもののように思えてきたので、聖書の言葉そのものはやはりおそろしく奥の深い一言と思えてきました。そう考え直すと、この場面でも、アンフォルタスの苦悩を「見ている」はずのパルジファルには何も「見えてない」ということを暗示しているのかも知れませんが、そう歌う聖杯騎士たちは文字通り「見ないで信じろ」というのですから、これも、アイロニカルといえばアイロニカルですね。
「聖杯騎士」というのは、エリートすぎて、ちょっと(というかだいぶ)変な人たちで、グルネマンツというのはこんなヤツらとよく一緒にいられるなあ・・・とも思います。ただ、彼自身も疎まれて、若者養成学校(?)の指導員になっているという設定かも知れません。