アドルノ「ヴァーグナー試論」を読む

同書は今年3月に高橋順一氏の訳で作品社から発行されました。

ヴァーグナー試論

ヴァーグナー試論

それにしても、これは偉業だと思います。おかげさまで、ずっと読みたいと思っていた念願がかなったと同時に、アドルノの慧眼と的確な批評に舌を巻きました。
最も啓発的で、ほとんど畏敬の念すら覚えたのは、「Ⅱ 身振り」の次の箇所です。

(37ページ)
ヴァーグナーの音楽意識は独特な退行に支配されている。それは、西欧合理主義の歴史とともに絶えず強化され、自律的で言語に良く似た音楽論理を結晶化するのに少なからず貢献してきた模倣(ミミーク)への怖れが、彼には絶対的な力を及ぼしていないことである。彼の作曲活動は前言語的なものへと回帰する。とはいえその際に言語に類似したものを決して完全に放棄することは出来ない。(中略)
だが西欧(アーベントラント)において音楽は表現へと精神化・内面化され、その間同時に音楽の進行全体が制作を通じて論理的綜合の支配下に置かれる。両者の要素のバランスをとるために偉大な音楽は苦労してきたのだった。ヴァーグナーはそうした流れに逆らっている。彼の音楽はそれ自体のなかではいかなる歴史も成就しない。

良く咀嚼された読みやすい翻訳というのは、本当にありがたいと思います。ここで、「模倣(ミミーク=ミメーシス)」という概念は、訳注によるとアドルノにおいては「「美=芸術」においてのみ瞬間的に可能となる自然と人間の根源的な和解=宥和の契機」としてとらえられている、すなわち肯定的な概念であるということに注意が必要です。
確かに、バッハにおいてもベートーヴェンにおいても「音楽=言語」と感じられます。その意味で、そこには「啓蒙」があります。一方、ワーグナーの音楽には確かに「前言語的なもの」あるいは「無意識的なもの」が前面に出ていることを否定できないでしょう。

(39ページ)
ソナタ交響曲は、時間を批判的に自らの対象とする。つまりそれらは時間に、それらが付与した内容を通じて顔見世することを強いるのである。だが交響曲において時間の経過が瞬間へ転換されるのに対し、ヴァーグナーの身振りはもともと変化せず、無時間的である。そこでは、無力な反復のうちにある音楽が、交響楽においては実現していた時間の支配を断念する。

ここにある通り、ヴァーグナーの音楽とは、まさに先史的(アルカイック)な無時間性そのものの表現ではないか、と私は感じます。

(40ページ)
音楽に通じていない聴衆が円熟期のヴァーグナー作品に感じる退屈さは、おそらく崇高なものの要求を拒否する凡俗な意識の象徴であるばかりでなく、楽劇それ自体のうちにある時間経験のもろさにも条件づけられている。難しさが強まるのは、反復進行によって身振りから身振りへとつなげるべき表現の契機 −もっとも有名な『トリスタン』の冒頭場面では、「愛の苦しみ」− が、舞曲風の、音に忠実な反復を排除し、まさしく心をうつような変奏を要求するからである。この変奏に対しては動機の持つ身振りとしての性格が反発し、変奏はまさに理性主義的な、音楽の形態に対して無理やり強制されるやり方によってヴァーグナーの「心理学的変奏」の原理へと置き換えられる。

これは含蓄の深い文章で、彼の音楽を褒めてるのかけなしてるのかわからないですが、肯定否定はどうでもよく、少なくとも「トリスタン前奏曲」について、これ以上に啓発的な文章というのはないのではないでしょうか?後半の文章の解釈は難しく、要求されている「まさしく心をうつような変奏」は現に存在しているのか、「心理学的変奏」とは何かという点がわかりにくいです。この点については、続く「Ⅲ 動機」(53~54ページ)において、詳細な解説がなされているのですが、実はその部分を読んでも、私にはいまひとつ理解できません。
ただ、この音楽を何度も聴くと同時に楽譜を読んで私が感じるのは、トリスタン前奏曲では、すべてが「音楽的に内在的な必然性」ではなく「恣意的な(心理学的な)ずらし」によって生じているというのではないかということです。ここでは、たしかに全てが「展開」ではなく「変奏」なのであり、それゆえにこそ「無時間的な反復」が『トリスタン』だけではなく、彼の全ての作品の原理になっているように思えます。しかし、もちろんこれは決して否定的にのみ解釈されるべきことではなく、まさにこの創作上の発見こそが、ヴァーグナーを芸術的に特異な存在にしていることは間違いないと思います。