心の「痛み」、そして「癒し」(マーラー「9番」とモーツァルト「ジュピター」)

私は久しぶりに土日の連休を取っています。明日はちょっと職場に顔を出す予定ですが、3月11日以来初めて家でゆっくり落ち着いています。
やはり必要なのは音楽です。直後は主にモーツァルトを聴いていたのですが、最近聴いているのはマーラーです。
私がマーラーに感じるのは、この人はひどく苦しみ傷つき、それでいて生を愛することを諦めなかった人で、彼の交響曲というのはその戦いの記録だと思います。その頂点にあるのが彼の「第9」で、この曲が到達した高みというのは、このジャンルでの最高峰だと思います。(個人的には唯一比肩するのはブルックナーの「第9」とニールセンの「第5」ですが、後者については多くの異論があるような気がします。)
この曲にはもちろん多くの名演があります。ワルターの1938年ウィーンフィル、バルビローリ・ベルリンフィルザンデルリンク・フィルハーモニアなどが代表的なもので、私はそれぞれ感銘深いです。あまり知られていないながら、ヤッシャ・ホーレンシュタインの1954年ウィーン交響楽団というのもテンポが極めて遅いながら充実した名演で捨てがたいです。
今聴いているのは、ユッカ・ペッカ・サラステのWDRケルン交響楽団の演奏。年末にネットラジオで聴いたオスロ・フィルとの演奏が素晴らしかったので買ってみたのですが、こちらは「まあまあ」かな?(オスロとのほうがもっと良いような気がする。やはり北欧オケが合うのかも?)とはいえ、この演奏は第3楽章の後半がイケてます!第4楽章の出だしも素晴らしい。じらしといて最後で盛り上げる・・・渋く見せといて、なかなかの役者です。でも、私的には、やっぱりもう一つかな・・・。
この曲は最初の出だしが良ければまず間違いなく良くて、そこがダメならもう聴かなくていいというある意味分かりやすい曲です。もう一つのチェックポイントが、前にも書いたのですが、展開部最初の盛り上がりが消えた後に始まる弦楽器だけの第2主題を中心とした対位法的なフレーズ。私はここは西洋音楽の真髄だと思います。音楽学者ではないので詳しくは言えないのですが、いかにマーラーがバッハを深く研究していたかが良く分かると思います。徹底的な勉強がペダンティックなものにとどまらず、心のうちの情熱を伝える最上のメソッドとなっているところが感動的なのです。
ここの演奏は、まさに指揮者によってまちまちなので、ここだけ取り出して聴いてみるというのも面白いかも知れません。サラステ・WDRケルンはけっこう理知的なのですが、それまでセーブしていた分を後半のほうで開放し、情熱のほとばしりを見せる所が良いです。
また、最近の演奏と言うことで挙げると、リッカルド・シャイーとロイヤルコンセルトヘボウのこの部分は、最初の弦楽器の音が艶めかしく官能的です。これはなかなか斬新なアプローチで私は好きです。彼とこのオケのマーラー全集を今少しずつ聴いているのですが、この人のマーラーはとても良いですよ。基本的に「耽美的」なのです。巷でそれほど話題になっていないのが不思議なぐらいです。「第9」を改めて聴いてみると、サラステには申し訳ないですが、こちらのほうがいいです。

マーラー:交響曲全集(全10曲)

マーラー:交響曲全集(全10曲)

私ここで力説したいのですが、マーラーへのアプローチというのは、彼の音楽は「120%ドイツ・オーストリア音楽」という地点から出発するべきだということです。言葉を替えれば、東欧の民俗性とかユダヤ人だからみたいなことを強調するべきではないということです。
彼の有名な言葉として「私は三重の異邦人だ。オーストリアではボヘミア人、ドイツではオーストリア人、世界ではユダヤ人だ。」というのがありますが、そういう人がウィーン国立歌劇場の指揮者となった時に目指すのは「オーストリア人以上にオーストリア人であること」だと思えないでしょうか?日本人というのは、どうもそういうことへの想像力が働きにくい「島国人」だと思うので、その点への指摘はあまり無いように思います。
彼の旋律の多くは、いかにもドイツ音楽的なアウフタクトで始まります。「巨人」の第1楽章の第1主題、「3番」の第1楽章でいきなり吹き鳴らされる第1主題(終楽章の主題はその変形)、「4番」の「ロココ風」もそうですし「5番」も「6番」もそうです。「9番」の第1楽章第1主題だってそうですよね。これこそ「120%ドイツ・オーストリア人」であろうとしたことへの一番分かりやすい証明であるように思えますが、どうでしょうか。
だから私は、例えばバーンスタイン、また彼とはだいぶ違いますがエリアフ・インバルのアプローチって、本質から外れているように思うんですよ。もちろん好きな人もいると思うので決してそれを否定するわけではありません。良い所もあるので私自身楽しんでいる部分もありますから趣味の問題で、考える材料を提供するために書いているのだとお考えいただければ結構です。
本題に戻ると、マーラーの音楽というのは「心の痛み」を全身で受け止めて共感覚的に感じるものだと思います。確か彼は若い頃にバイロイトで『パルジファル』を聴いてものすごく感動したので、案外それが後まで尾を引いているのかも知れません。『パルジファル』がマーラー交響曲への道を開いているのだとしたら、ワーグナーはもって瞑するべきでしょう。
でも、人は「心の痛み」だけでは生きられないので「癒し」が必要です。マーラーの第9の第4楽章はまさにそれですが、今日はもう一つ私が「癒し」としているCDをオススメしたいと思います。モーツァルトですが、これはお手頃価格なので、ぜひ買ってくださいね。私は渋谷のタワーレコードで買いました。(たぶん都内で最も品ぞろえの良いレコード店です)
Symphonies 39 & 41

Symphonies 39 & 41

私はクラシックを聴き始めて四半世紀経っていますが、恥ずかしながらこれを聴いて初めて「ジュピター」の素晴らしさを得心しました。「39番」もいいのですが、こちらは意外と誰が振ってもいいのですよ。そういう曲を私は自分的に「強い曲」と呼んでいますが、「41番」は「弱い曲」で、正直どの演奏を聴いても全然いい曲に思えませんでした。「クラリネットがないからなあ・・・」と思っていて、「なんでこんな編成にしたんだ?モーツァルト、やっぱり窮迫していたから気が回らなかったのかなあ?」とも考えていたのですが、このガーディナーの演奏を聴くと、なぜクラリネットがないのか脳みそでなく身体的に理解できました。この曲は「古楽」としてやらねば理解できず、現代楽器ではダメです。「百聞は一聴に如かず」・・・ぜひ聴いてくださいね!
やっぱり「癒し」はモーツァルトです。