「神々の黄昏」(5)〜ジークフリートの葬送行進曲

ことほど左様に、「黄昏」という物語では、「ハーゲン」が重要な役割を演じ、主役のお株を完全に奪っています。
しかし、それが逆転するのが「ジークフリートの最後のアリア」であり、それに続く「葬送行進曲」で、これはさらに決定的になります。
この「葬送行進曲」は、『指輪』の「第1のフィナーレ」であり、コンサートで単独で取り上げられることも多いので、ワーグナーの作品の中でも最も評価が高いもののひとつです。
まさにそうなのでしょうが、私には、これを一つの「楽曲」として取り上げた時、どうにも違和感が感じられてなりませんでした。具体的に言うと、「剣の動機」が力強くハ長調金管で吹き鳴らされる所を境に、その前を「前半」、その後を「後半」とすると、前半は紛れもなくワーグナー最良のページの一つですが、後半は、「ワーグナーにしては凡庸」に思えてならなかったのです。
さらに言うと、前半の、ジークムントやジークリンデの愛と悲しみを振り返る「フラッシュバック」の「しんみり感」に比べて、後半の「ドガジャーン、ドガジャーン」は何だかなあ?ということです。

そんな風にずっと思っていたのですが、ある時、生演奏を聴いていて、ふと気付いたことがありました。それは、この打楽器総動員の「トゥッティ」は、もう音楽ではなく「騒音」を狙っているのではないか、ということです。
その時は、オーチャードホール(残響時間が長いような気がする)だったので、余計そのように感じたのかもしれませんが、それまでの音楽が「水平飛行」だとすると、ここでいきなり「急降下のきりもみ」に入ってしまう。あるいは、広い草原をテクテク歩いて行くと、なぜかいきなり目の前に天まで届く崖がそそり立って、にっちもさっちも行かない・・・そんな感じです。
そうなると、人はそこで「思考停止」するしかありません。「ジークフリートのモティーフ」が吹奏されていようが、そんなメロディーは、もう耳に入らなくていいのです。横に伸びる時間は停止して、ひたすら「ドガジャーン、ドガジャーン」という「騒音」(あるいは「垂直的サウンドの無機質な連なり」)に身を浸すようになってしまいます。
これは、得難い体験であったのですが、オーディオでは、これを体験することができないように思えます。ですから、生演奏では、ぜひこれを聴きたいのです。指揮者さんにお願いしたいことは、「まとめようとしないでね。雑音でも何でもいいから、大音量で時間を止めてください」ということです。もともと、そうされているかも知れませんが。

これに対しては「ワーグナーが騒音を狙っていた?君は何を考えているんだ!」とお叱りを受けそうですが、やはり私にはそう思えます。言葉を換えると、「ジークフリートの死はもはや音楽では表現できないものだ」とワーグナーは考えていたのではないか、と勝手に憶測します。「音楽」ではなく、ただの「音」。「ミュージック」ではなく、ただの「サウンド」。だからこそ、あんなにもやたらめったら打楽器を総動員(ティンパニ2台はもちろん、シンバル、小太鼓、トライアングルまであります)しているのではないか?これが私の考えです。

ならば、そうまでして表現したかったことは何か?それは、「罪なき者(ジークフリート)が殺される不条理」だと私は思います。この言語を絶する「なぜ?」に対しては、「音楽を絶する」表現しかないと考えたのではないでしょうか。
ワーグナーは、自分はドラマティカー(劇作家)だと思っています。ですから、ここでは「音楽的調琢」よりも「舞台表現」を優先させているように思えます(常にそうではないと思いますが)。
「不条理」への答えは、「沈黙」か「騒音」かしかありません・・・その中で選ばれたのは後者「騒音」だと思います。

ところで、上記のことは年来考えていたことなのですが、今回改めてそれに気がついたのは、やはり「ト書き」です。
「雲間から月が輝き、山頂に差し掛かった葬列をますます明るく照らし出す。だが、ライン河から立ち上る霧は、次第に舞台いっぱいに広がり、葬列は今や全く見えなくなってしまう。霧は舞台前方にも広がってくるので、この間奏曲の間、舞台は完全にヴェールに覆われてしまう。」
http://www31.atwiki.jp/oper/pages/202.html
スコアを見ると、このト書きは、木管楽器によるメロディーが消えていった直後、低弦の上昇音階が再度現れるところから、「剣の動機」が出現する直前の6小節間に書きこまれています。ですから、ト書き通りに演出したとすれば、霧は上昇音階とともに立ち上り、「剣の動機」の直前、遅くともそれと同時に舞台全体が霧につつまれ、「ドガジャーン」の場面では、ずっと舞台は真っ白です。
実はこれまで、このト書きはノーチェック(ト書きは、読み飛ばすことが多いですよね)だったのですが、これは、上記の音楽上のイメージに完全に一致しています。我ながら、ちょっとびっくりしました。
ワーグナーが「舞台を見せない」ことを選択したのは、「指輪」に限らず、あるいはこれが全作品で唯一ではないでしょうか?(もちろん「前奏曲」は別として。唯一「ラインの黄金」のニーベルハイムに向かう場面が一瞬霧に隠れますが、「下へ下へ向かっているような印象を出せ」というような指示がありますので、やはり「表現」しようとしています)
聴覚と視覚に対して、「表現しない」(または「表現できない」)という「一世一代の」アイディアを彼は選択したように思えます。

うーむ、やはり訳してみるものです。書きながら、なかなか理解が深まってきました。