またまた「ジークフリート」

なかなか、この世界から脱出できずに、やっと「ブリュンヒルデの目ざめ」以下を訳し終わりました。この部分、難しいですね。アップした後に、ほんとにこれでいいのかな?と。でも、また風邪がぶり返してもしょうがないので、あまり考えないようにしよう・・・。ワーグナー・ファンにつける薬はないですかね?

http://www31.atwiki.jp/oper/pages/195.html

一語一語考えてしまうので、いろいろ新たな発見があるのですが、それにしても、このシーンって生々しいですね。セリフを訳していると、無人島に男女が二人っきりでいるみたいな感じがしてきます。(昔そんなハリウッド映画があったような気が?まあ、この二人も実際そんな状況ですが)

昨日は二人の会話の「すれ違い」に触れたのですが、今日訳したシーンでも、ジークフリートが「ぼくの目は、あの歓びの口に安らいでいる・・・/でも、ぼくの唇は火照るような渇きに燃えている。/ああ、目の安らぎであるあの口で、この唇を鎮めてくれたら!?」などと言いますが、これじゃ、誰でも引いてしまうような気が・・・。ブリュンヒルデが憂鬱になっていくのも分かります。

ここで面白いのは、「安らぎ」と訳した「weiden」という単語を、その直前に、ブリュンヒルデは「グラーネが草を食んでいる(weiden)」という形で使っているということです。たぶん、ジークフリートは「しゃれ」として気を利かしたつもりで、こう言っているんでしょうが、全然しゃれになっていないような気が・・・。
おそらくこれは、意図的なものだと思います。「黄昏」でも、ジークフリートはこういう所があり、例えば「グートルーネ・・・まさに良き(グート)しるし(ルーネ)だ」みたいなダジャレを言いますから。ジークフリートの「野生児的・田舎者的」な性格をむき出しにさせるために、わざとこう言わせているのでしょう。

それはさておき、本題に戻ると、この「すれ違いの対話」の生々しさは、男女が「ジェンダー」ではなく、性的存在として向き合っていることによるように私には思えてきました。当時としては、ものすごく独創的な台本のような気がするのですが、一面あまりに前衛的すぎるので、音楽的にどう処理すればいいのか、ワーグナー自身も苦慮しているような気がします。音楽が前に進まないで停滞している感じなので、つまらなく感じる人がいるのも分かります。きっと演出家泣かせでもあるでしょうね・・・。

この前のウォーナー演出では、ここはもう音楽に下駄を預けたように思えます。だから、「ジークフリート牧歌」の後からは、見るというより聴き入ってしまう感じですね。これは、まあ、これでいいのかなと。最後までブリュンヒルデジークフリートを拒否し続ける演出(それって結局ブリュンヒルデをおとしめてないかい?)よりかは、よほどいいです。