「ジークフリート」(つづき)

昨日の上演で、ヴォータン(さすらい人)のことを書かなかったのですが、ユッカ・ラジライネンは、第2幕までは比較的抑えているように思えたのですが、第3幕では全力投球で「おっ!」と思いました。このシーンは、エルダ役のシュレーダーも良かったので、堪能しました。ジークフリートとの掛け合いも良かったです。
なお、このシーンの背後には、「ワルキューレ」の第3幕のER風の病院の廃墟が広がっており、その上には8ミリビデオ(?)のテープがまき散らされ、これを「運命の綱」と見立てた3人のノルン達がもてあそんでいるという演出です。(「ワルキューレ」第3幕の「騎行」シーンでは、このERを看護士風のヴァルキューレ達が出たり入ったりします。この舞台はいいなあと思いました)

さて、今回、プログラムを買って読んでいると、対談があって、第3幕のブリュンヒルデのシーンの話がありました。ここは本当にいいシーンですから、さもありなんなのですが、一つ考えさせられたのは、対談者たちが、このシーンをニーチェの「永劫回帰」思想と関連付けてとらえていることです。
私は、この「永劫回帰」の思想自体が良く分からないので、その点については何もコメントできないのですが、この話をキッカケに自分なりにいろいろ考えてみました。
それで得た一応の結論は、この場面のテーマは、ブリュンヒルデが「神々に許された永遠の生命を捨て、死すべき存在(=人間)になる」との宣言ではないかということです。「永遠の命」よりも「死ぬからこそ輝かしいのだ」という価値観の大転換が、ここで最終的に達成されているのだと思います。

ところで、このテーマは、しばしば取り上げられるテーマではあります。ヤナーチェクの『マクロプロス事件』もそうですし、近いところでは、ワーグナー・ファン松本零士氏の『銀河鉄道999』もそうですね。
そのような観点で見るとき、「没落」を歌うブリュンヒルデは、「神々の世界」の没落と破滅を歌いながら、実は自分自身の死を肯定しているようにも思えます。「輝きながら愛し、笑いながら死ぬ」ことは人間にしかできないのであり、彼女はいまやそれを自らの運命として受け入れるということではないかと。

昨日のブリュンヒルデがけっこう頭に残っているので、今日は、上記のようなことを考えつつ、前回訳したシーンの少し前の部分を翻訳してアップしました。見てきた熱気が冷めやらぬうちに、と思ったのですが、熱っぽいのはカゼのせいかもしれません(笑)。この部分、リブレットも「火」とか「炎」のオンパレードで、どう訳しわけようか苦慮してしまいます。火焔、業火、灼熱と、普通には使わない単語(漢語?)を総動員してしまいました。
でも、情熱的なのはジークフリートばかりで、ここは男女のセリフの「すれ違い度」がすごいです。
ところで、最終的にこの場を収めるのは、私には、どうもブリュンヒルデの「母性本能」のような気がするのですが・・・。見逃されがちですが、彼女とジークフリートは、親子ほど年の差があるカップルですから。