「ユートピア論」〜ブルックナーの「不信」

「オペラ対訳プロジェクト」の『魔笛』コメントでは、ユートピアという感覚がオーストリア(というよりハプスブルク帝国)の作曲家にはあるけれど、ドイツにはないと書きました。
具体例として、マーラーをあげたのですが、シューベルトのことを忘れていました。彼もまた「ユートピア」をいともたやすく呼び出す作曲家だと思います。
さらに、アルバン・ベルクも、さすがにそんなに無邪気ではないですが、やはりその要素が十分あります。『ヴァイオリン協奏曲』のフィナーレなどがそうですね。
ただ、オーストリアの大作曲家というと忘れてはならないのがブルックナーですが、彼はあまり「ユートピア感」がないですね。これは重要な例外です。音調は明らかにオーストリア風なのですが、中身はドイツ風だと思います。ワーグナーを見習ってしまったからかもしれませんが。
ところで、これまで無定義で「ユートピア」(的音楽)という言葉を使ってきましたが、要するに「天国」とか「楽園」を感じさせる音楽と言えるかもしれません。『魔笛』の鈴の音とか三人の童たちの歌、シューベルトの小品やリート、マーラーの『角笛』や『6番・7番』の第1楽章に出現するアダージョなどは、まさにそういうものだと思います。
しかし、ブルックナーを聴いていても「天国」は感じられませんねえ・・・。そんなことを考えていると、彼の音楽というのは、本来求めているユートピアを彼の言う「愛する神」に拒絶されているようにも思えてきました。その傾向は、初めは目立たなかったのですが、晩年になればなるほどエスカレートし、『9番』に至っては、恐ろしいまでの「不信」に達しているような気がします。
一方、モーツァルトシューベルトマーラーには、そのような不信はないですね。ある意味、素朴な信仰が彼らを支えているような気がします。しかし、あるいはそれは同じことの裏返しかも知れません。信心深い人が歳を取り、死に近づいていくにつれ、懐疑的になっていく。そこに、ブルックナーの個人的悲劇と、その裏返しとしての圧倒的感動があるようにも思えます。
しかし、オーストリアの作曲家って、なぜか若くして死んだ人が多いですね。シューベルトモーツァルトはもちろんですが、マーラーの51歳も若すぎです。せめて、あと10年、という感じです。ベルクも『ルル』を書かないうちに死んでしまいますしね。代表作を仕上げずに、ここまで評価されている作曲家というのも珍しいですが、マーラーにしても、誰がどう考えても超名曲に仕上がっていたはずの『10番』を仕上げずに死んでしまいました。返す返すも残念です。