劇作家?ヤナーチェクについて(1)
今日はネットラジオでヤナーチェクのシンフォニエッタを聴きました。ヤナーチェク・フィルというのは知らなかったのですが、チェコのオストラヴァという所にあるオーケストラのようです。
演奏は、金管を派手に鳴らしたりはせず、むしろ低弦とかが地味に盛り上げる感じですね。なんか「お国自慢」を聴いているような感じですが、実は作曲者のイメージはこんな感じなんですかね?
シンフォニエッタもいいのですが、ヤナーチェクといえばオペラです。私は、それなり気合いの入った古くからのヤナーチェク・ファンなのですが、最近、日本でも良く演奏されるので、本当にありがたいですね。
昨年秋も、東京交響楽団の『ブロウチェク氏の旅行』を聴きに行きました。日本初演だそうで、良くこんな「どマイナー」作品を演奏してくれるなあと頭が下がる思いです。
演奏はホントに良かったです。飯森さんの指揮も、オケも、合唱も。音楽も結構いいのです。しかし、台本の脈絡が・・・。
『魔笛』の台本も「音楽にひきかえ・・・」と散々叩かれるのですが、いやいや「ブロウチェク」にはかないませんよ。ヤナーチェクは、この作品を仕上げるために、何年もかけて何人もの作家の手をわずらわせています。それでも結局いい台本ができなかったので、「これからは自分でやろう!」と思ったことが、彼にとっての、この作品の最大の価値かもしれません。
とはいえ、字幕を見ていると「なるほど、こういうことを言っていたのか」と、とても良くわかりました。演奏者にもそうですが、訳した方にもお礼を言いたい気持ちです。
ですが、ヤナーチェクのオペラって、それ以降の台本は良くなったのか?と言われると、ウウッ・・・という所が無きにしもあらずです。例えば、『利口な女狐の物語』ですが、これもプロットがないだろうと。ですが、「女狐」は、話にものすごく引き込まれます。これは音楽の力だけではなく、台本の力でもあると思います。
一見、バラバラな素材が適当につなぎ合わされているだけに見えますが、そこには「男女」というテーマが貫かれています。第2幕では、恋を諦めた男たち3人と、メルヘンティックな恋愛をあっという間に成就するキツネたちが、鮮やかなコントラストで対比され、それこそがこの作品の統一感なのだと私は考えます。
ですが、それを追求しすぎると、逆に、マックス・ブロートの「改変」のような形で統一感を出そうとすることになります。フェルゼンシュタイン演出のベルリン・コミッシェ・オーパーの映像は、それに基づいたものです。
ちょっと、この件は長くなりそうなので、また次回にします。最近買ってきたパリ・オペラ座のDVDについても触れられればと思います。