トリスタンと「ドン・ジョバンニ論」

相変わらずキルケゴールの『あれかこれか』の「ドン・ジョバンニ論」を読んでいます。
キルケゴールによれば、ドン・ジョバンニは一個人として捉えることはできない「感性的なもの」であり、それを表現する手段は音楽しかあり得ない、ということです。そして、その感性的な愛は一人の女性に向けられたものではなく、全ての女性に向けられている・・・というのですが、これにはナルホドと思わされました。
そこで、ひるがえって考えてみたのは、『トリスタン』ではどうなのか?ということです。
第2幕のトリスタンとイゾルデは、一個人であることをやめてしまって、まさに「感性的なもの」になっているように思えます。また、それを表現できる手段は音楽をおいてない、ということも言えると思います。
一方で、第3幕のモノローグでは、トリスタンの姿は一個人に戻っているように私には思えます。だとすれば、そうした「一個人」と「イデア」との揺らぎという視点から『トリスタン』にアプローチする道もあるのではないでしょうか?
それにしても、キルケゴールはさすがに鋭いです。ただ本題に入るまでの文章がやたらと長いです(少なくとも私には・・・)。彼が『トリスタン』を聴いたとしたら、一体どう思ったのでしょうね?