ニーチェのワーグナー論(5)

『純潔の使徒としてのワーグナー』についてのコメントです。
まず、『パルジファル』は、ニーチェが言うような単純な「カトリック回帰」ではないので、その意味では、論旨としては間違っていると言わざるを得ないと思います。(もちろん、一見「宗教くさく」思わせる要素があるのは事実ですが)
しかし、ニーチェの文章には、思わずうなる「鋭さ」があります。たとえば、「3」の「なるほど、パルジファルとはすぐれてオペレッタの素材ではある・・・」などと言う所です。
これは、トーマス・マンが『リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大』の中で、「パルジファルでは、奇妙奇天烈な人間達がごちゃまぜになっていて、それを神聖化するのは、音楽の力以外の何者でもない」(正確な引用ではありませんが)と言う部分を、まさに先取りしていると思います。
また、トーマス・マンニーチェワーグナー論を「形を変えた賛辞である」と言いますが、そのアンビバレンツな部分は、次のような部分に出ているように思えます。先ほど引用した文章の直前の「そう、悲劇性そのもの、かつての震えあがるような地球的厳粛さと地球的悲しみの総体、不自然極まりない禁欲的理想において最終的に克服された最高に愚かな形式…」という所です。この「悲劇」とは、私には『トリスタン』のことのように思えてなりません。ニーチェがあれほど没入し、『悲劇の誕生』を書く契機となった『トリスタン』に対する愛が、裏側から感じられるような気がしてならないのです。
ところで、この『純潔の使徒…』を含む遺稿『ニーチェワーグナー』については、白水社ニーチェ全集』(第3巻第Ⅱ期)の浅井真男先生の訳が、読みやすい(=意味が良く分かる)良い訳だと思います。
ただ惜しむらくは、浅井先生はワーグナーがお好きでないらしく、訳注に首をひねる所が多いことです。「ワーグナー・ファンからのニーチェへの非難は聞くにたえない。公平であるべきだ」とお書きになっているのですが・・・
とはいえ、かく言う私も以前は「ニーチェワーグナー論など読むにたえない」と思っていたので、同じですね。そのため、「なぜトーマス・マンは、これを『形を変えた賛辞』というのだろうか?」と疑問に思っていたわけです。ところが、翻訳しながら一文一文をたどって見ると、文章の微妙なニュアンスの中に、そこはかとないワーグナーに対する「愛憎」のようなものを感じて「なるほど…確かにそうだ」と思ってしまいました。
もはやワーグナーは「古典」であり、その作品の価値は揺るぎないもの(好き嫌いは別として)なのですから、ニーチェの激烈な悪口の中に隠された「本音」を読み解いていくべきだと、今は考えております。

★ ☆ ★ ☆ ★
今日は、ネットラジオで、ペトリ・サカリのアイスランド響のシベリウスを聴いています。「4番」ですが、この曲とこの演奏、ホントいいですね〜。とくに、第3楽章で、憧れをこめて上昇するメロディーを切々とうたうチェロの響きがたまらんです。
いま全曲終わりました。終楽章のフィナーレも、素晴らしかったです。ふと日付を見たら、演奏日は2年前の10月ですね。アイスランド金融危機の大激震に見舞われていた頃かと?アイスランド響、いま大丈夫なんですかね?