ニーチェのワーグナー論(3)

前回の続きで、『純潔の使徒としてのワーグナー』2です。
Zwischen Sinnlichkeit und Keuschheit giebt es keinen nothwendigen Gegensatz; jede gute Ehe, jede eigentliche Herzensliebschaft ist über diesen Gegensatz hinaus. Aber in jenem Falle, wo es wirklich diesen Gegensatz giebt, braucht es zum Glück noch lange kein tragischer Gegensatz zu sein. Dies dürfte wenigstens für alle wohlgerathneren, wohlgemutheren Sterblichen gelten, welche ferne davon sind, ihr labiles Gleichgewicht zwischen Engel und petite bête ohne Weiteres zu den Gegengründen des Daseins zu rechnen, — die Feinsten, die Hellsten, gleich Hafis, gleich Goethe, haben darin sogar einen Reiz mehr gesehn… Solche Widersprüche gerade verführen zum Dasein
官能と純潔には何ら必然的な対立関係はない。全ての良き結婚や愛の営みそのものは、そんな対立は軽々と越えていく。仮にそんな対立が存在していても、悲劇的な対立関係を長い間続ける必要など、ありがたいことに全くない。このことは、天使と「虫けら」との間でバランスを取る事が生を阻害する理由になるなど思いも寄らなかった心映えさわやかな賢い人びとには少なくとも当てはまる。つまり、ハーフィズやゲーテのような最も繊細な者、晴れやかな者は、むしろその点に刺激剤すら見出していたのだ。あたかも、そのような矛盾こそ生きる気力を起こさせるのだとばかりに。
Andrerseits versteht es sich nur zu gut, dass, wenn einmal die verunglückten Thiere der Circe dazu gebracht werden, die Keuschheit anzubeten, sie in ihr nur ihren Gegensatz sehn und anbeten werden — oh mit was für einem tragischen Gegrunz und Eifer! man kann es sich denken — jenen peinlichen und vollkommen überflüssigen Gegensatz, den Richard Wagner unbestreitbar am Ende seines Lebens noch hat in Musik setzen und auf die Bühne bringen wollen. Wozu doch? wie man billig fragen darf.
それとは逆に、キルケーの生贄に成った獣達が一たび純潔を崇めるようになれば、そいつらがその中にただ対立だけを見て、その対立関係を崇めることは余りにも自明のことだ。ああ、何と豚が泣くように夢中になって!と思うのか?・・・だが、リヒャルト・ワーグナーがその生涯の最後に当たって音楽にし、舞台に乗せようとしたのは、疑いもなく、そんな痛ましくもまるで余計な対立関係なのだ。いったい何のために?と思うのは当然だ。

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前半のゲーテはともかく、ハーフィズという人は知らないので、辞書を引くと、「14世紀のペルシアの叙情詩人」とありますが、全然知らないですね。
後半の「キルケー」ですが、これはホメロスの『オデュッセイア』の中で、偵察に出たオデュッセウスの部下を動物(豚?)に変えてしまう魔女です。辞書には「キルケーのような男を惑わす妖婦」とありますから、クンドリーがイメージされているのでしょうか?
この「2」では、ワーグナーが『パルジファル』で官能と純潔の対立関係を設定したことを批判しているのですが、『パルジファル』は、そんなに単純な話なんでしょうかね?
論旨には疑問がありますが、ニーチェの文体にはユーモラスな面があります。真剣なのか遊びなのか判然としない所があり、そこにトーマス・マンのような解釈が生まれてくる余地があるように思います。