「トリスタン」のなぞ(3)

今日は、いよいよ「トリスタン」の本質に迫ろうと思います。
前回は、トリスタンが「生」を求めながら、物語の進行とともに「死」の運命に引き寄せられていくことを指摘しました。
一方のイゾルデはといえば、彼女は初めから「死」を覚悟し、それゆえにトリスタンを「死」へと引きずり込もうとします。
ゾルデがそうなってしまったことには、もちろんそれだけの理由があります。
彼女とすれば、トリスタンは「許嫁のかたき」でもありますが、彼の命を助けた時、いったん復讐の思いは捨て去ったのです。もし彼が「自分の妻」としてイゾルデを迎えに来るならば、彼女はすべてを許すことができたかもしれません。
しかし、トリスタンは彼女を「マルケ王の妻」にしようとします。絶望と屈辱の中で、彼女が「死」を望むというのは、無理のないストーリー展開です。
ここで問われねばならないのは、もう一つの概念である「愛」との結びつきです。「死」を思い定めているイゾルデにとって、「愛」と「死」とは初めから分ちがたく結びついています。
しかし、トリスタンにとってはそうではありません。彼の「愛」は「死」とではなく、本来「生」に結びついています。これは、決して奇矯な話ではなく、通常そうであるはずのものです。
ところが、彼は自らの錯誤によって「愛と死」の宿命を、死を覚悟したイゾルデによって背負わされます。
ワーグナーが「トリスタン」という作品において表現したのは、ここに生じた、ものすごい悲劇にほかなりません。
その点を一番はっきりと示しているのは、全曲の白眉である第2幕の「愛の二重唱」以下の台詞と音楽です。
「愛の二重唱」では、二人の意識は、まだ「愛」の歓びと過去の回想に向けられています。しかし、「ブランゲーネの見張り歌」を経て、二人の会話は「死と愛」に収斂していきます。
この会話を主導するのは、紛れもなくイゾルデです。しきりに「死」を持ち出すイゾルデに対して、トリスタンは、はぐらかすような曖昧な受け答えをしつつも、どんどん「死」へと押し流されていきます。また、この部分の「音楽上の凄み」は、執拗な半音階進行の中で、トリスタンの歌唱メロディーが、必ず最初の音から下降することです。
しかし、それに負けるイゾルデではありません。『あたしたちの愛の名前は、トリスタン「と」イゾルデではないかしら?この「と」が無くなってしまったら、どうなってしまうの?』というコケティッシュ(音楽のせいでまるでそんな感じはしないのですが・・・)とも思える問いかけを経て、トリスタンはついに「愛」と「死」の二つの観念の結びつきを受け入れます。
「ならば死んでしまえばいいのかい?」とトリスタンは問いかけますが、それは第3幕の「イゾルデの愛の死」のメロディーでもあります。ここで、トリスタンのメロディーは久しぶりに上昇し、しかも全音階です。ただし、ここでのトリスタンの台詞は「So Stürben wir?」なのです。もし、「So Sterben wir」なら英語では「レッツ・ダイ!」ですから、かなりはっきりしているのですが、「Stürben」だと「Thus might we die」なので、直訳だと「ならば死んだほうがいいのかい?」になります・・・。
これは、本当に重要な箇所だと思います。解釈の仕方は色々あると思いますが、私は、トリスタンのこの言葉は「ためらい」と取ります。しかし、イゾルデは、そのためらいの言葉を繰り返します。「死んだ方がいいのかしら・・・?」と。この瞬間、初めてイゾルデは「安堵」を得るのです。言葉は曖昧だとしても、「トリスタンは私のために死んでくれる!」と彼女は確信し、そこに至福を感じるのではないでしょうか?
私のイメージでは、ここからイゾルデは「ふつうの女性」になります。それを何よりも表現するのは、それに続く音楽です。というよりは、彼女は、この時点で「歌わなく」なってしまうのです。フィナーレの『愛の死』を別とすれば・・・。
『トリスタン』前半部の主人公イゾルデはここで退場し、第3幕は、ひたすらトリスタンひとりの物語となります。