ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第10回定期演奏会

一昨日(7月13日)の夜は、ミューザ川崎で行われた「ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ」(JMO)の第10回演奏会に行ってきました。曲目は、マーラー『4番』と、ワーグナーの『ニーベルングの指輪』からの抜粋。
こちらの事務局から、演奏会のプログラムとして、2年前に私が訳したマーラーの「4番」の対訳転載のお申し出をいただいたので、ありがたくお受けしました。
(対訳は、こちらのページをどうぞ。http://d.hatena.ne.jp/wagnerianchan/20110525/1306329550
ソプラノの蔵野蘭子さんの声に耳を傾けながら、聴衆の皆さんが自分の翻訳を読んでいるのを見ると、嬉しいようなこそばゆいような不思議な感じです。この『天上の生活』での蔵野さんの歌は、ゆったりと流れる歌いおさめの詩節の細やかな表現が素晴らしいと思いました。
また、オケの演奏は、井上喜惟さんの指揮といい、楽団の方々といい、真摯に楽曲に向かい合っているところが、とても素晴らしく感じたのですが、こうして改めてじっくり聴くと、マーラーの舌を巻くばかりの天才性がよく分かります。この曲はやはり、初期のマーラーの「歌付き交響曲」の集大成ではないかと思います。
演奏は、特に第3楽章が白眉だったと思います。サラッと流すことなく、じっくりと心象風景を紡いでいくような表現により、最後の爆発的な「天国への移行」(?)のような表現が生きてくるように思えます。(終結部で、ハープのアルペッジョが上行していく箇所は、『パルジファル前奏曲終結と似ていることに気づきました)
後半はワーグナーの『ニーベルングの指輪』からの抜粋。実は、このようにオケだけのヴァージョンをあまりライブで聴いたことがなかったので、発見がありました。
ひとつは、これって「音楽」なのか?と。とにかく、普通の意味での「音楽」ではありません。ワーグナーの強烈な独創性に思い至って、いまだにアクチュアルな表現に驚かされます。ラインの黄金前奏曲からして、普通の意味での音楽ではないと思うのですが、第2場から第3場への舞台転換の、鉄床をトンカトンカトンカと鳴らす場面は、ライブで聴くと、耳をつんざく騒音というような感じです。
騒音と言えば、これは私の持論なのですが、『ジークフリートの葬送行進曲』の後半のクライマックスもそうで、ここでは表現したいことが「音楽」の域を突き抜けてしまって、「騒音」に近接しているように思います。世の中の矛盾とか、その中で感じる個人の無力感を表現するとしたら、このように「音楽ですらないもの」に達してしまったというところに、ワーグナーの本当の凄みがあるように思えます。だからこそ、そのあとに来るブリュンヒルデの愛のモチーフ・・・これが、悲しく歪められて登場すると、激しく胸を打たれます。以前にも似たようなことを書いたのですが、この曲はライブで聴くたびに理解が深まるように思います。(逆に、録音だと、この箇所の「騒音感」(?)がよく分からない面があります)
さて、『葬送行進曲』のクライマックスで、指揮者の井上喜惟さんは渾身の力を振り絞るように指揮台を踏み鳴らしておられましたが、プログラムでは、こう書いておられます。「本日の演奏で、何か、皆さんの魂に新しい発見とこの世界の不条理、また新たな未来、といったものを伝えることができればと願っている。」・・・
まさにそのような印象を私は受けました。『葬送行進曲』の不条理のあと、『ブリュンヒルデの自己犠牲』では、蔵野蘭子さんの歌うブリュンヒルデの静かなる告発が胸に沁みます。そして、終結(『指輪』自体の終結)では、神々の世界が、やはり大音響の中で崩れ去っていきますが、一つ『葬送行進曲』とハッキリと異なるのは、その中には、やはり「音楽」が聞こえてくるということです。そこに未来があるように思えます。
たいへん感銘を受ける演奏でした。来年は6月にマーラー『10番』をやるということなので、また来年も行きたいと思います。