クプファー氏の演出について(1)〜新国立劇場「パルジファル」第1幕

ハリー・クプファー氏の演出は、基本的に分かりやすい演出だと思うのですが、2回目を見て、さらによく意図が分かってきました。
(まだ14日にもう一日公演があるので、これ以降はネタバレ注意です。)
冒頭、前奏曲のゆったりとしたテンポとともに幕が上がると、舞台には稲妻のような形をした通路(プログラムによると「光の道」)が見えます。その通路上に奥のほうから光の河が流れて来て、舞台前面まで流れてきます。色彩的にも、非常に綺麗で印象的なオープニングですが、この通路の表面はどうやらLEDパネルになっているようで、そこに全幕を通して実に豊かな光の色が映し出されているようです。これは、すぐれた効果を上げていると思います。(タイミングの良いことに、ノーベル賞の話題もありましたので、感慨ひとしおでした)
舞台前面には、クンドリーと槍を持ったクリングゾルが、後方の光の道のほうを向いてうつぶせに倒れており、その奥には騎士団の白い服を身にまとったアンフォルタスとグルネマンツが二人で正面を向いてへたりこんでいます。
その通路の奥のほうに、3人の僧侶が坐って胡坐をかきます。これが今回の演出の特徴の一つである仏教のイメージで、それがのっけから示された形です。その印象をストレートに表すと、救いの道は後方にあるわけで、それは仏教だという感じです。
音楽が進むに従い、通路は箱が上下に動くことで寸断され、高くなった真ん中の箱の上には騎士団数名が現れ、そこにグルネマンツは這い上がりますが、アンフォルタスのほうはその段差を乗り越えることができません。やがて真ん中の箱は騎士団とともに沈み、救いの道は断たれたかのように見えますが、僧侶の遣わした童子が水をアンフォルタスに恵み、アンフォルタスにもまた救いの道がほのめかされているように思えます。
前奏曲における舞台装置の活用ぶりは実に雄弁だと思いましたが、それに対して、第1幕の前半では、それほど舞台装置の動きは多くなく、何を置いてもグルネマンツを演じるジョン・トムリンソン氏の素晴らしい演技力と、飯守氏率いるオケの表現力に多くが委ねられているように思えました。
二回目の視聴ですが、やはりトムリンソン氏の演技力と歌唱力には凄いものがあり、引き込まれました。その表現力の源泉は、言葉の一つ一つを万感の思いを込めつつ発声していることにあるように思え、オケの表現も見事にその歌唱とマッチしていると感じました。
オケの表現において、私にとってとりわけ印象的だったのは、アンフォルタスが退場していく所の音楽の美しさ、そして、その美しさにもかかわらず小姓たちがクンドリーをいじめにかかるシーン、第1幕ではここがとりわけ深い印象を与えられました。クンドリーの「ここでは獣も神聖ではないの?」という、ある意味告発とも言えるセリフが、その前のオケの演奏により、更なる凄みを獲得しているような、そんな印象を受けました。
「それならクンドリーをクリングゾル退治に行かせればいい」と詰め寄る小姓たちに、グルネマンツは「ナイン!」と言いつつも、一方では、クンドリーに「なぜあの時わしらを助けなかった?」と憤懣をぶつけざるを得ません。トムリンソン氏が体全体を使って表す身をよじるような激しい演技は、ふだん見落とされがちなグルネマンツという人物の激しい葛藤に光を当てるものだと思います。グルネマンツを過度に善人にも悪人でもない等身大の人間として描いているこの解釈は、私には非常に好感が持てるものでした。
少しさかのぼりますが、薬草を持って登場するクンドリーと、高椅子に乗って運ばれてくるアンフォルタスの登場はオーソドックスな演出。白い騎士団の衣装をまとい、脇腹から血を流しているアンフォルタスは、クンドリーに「行った!行った!」と拒否されると、高椅子から降りて、クンドリーの横を、歩いてとぼとぼと退場していくのが印象的でした。
グルネマンツ達の祈りのあと、突然現れる愚か者パルジファル。粗末な衣装を着ているクリスティアン・フランツ氏は、こう言っては何ですが、清らかな愚か者というイメージがぴったりと合います。これは私の好みと素晴らしく合致。
この時、背後に僧侶3人が再び現れるのは、パルジファルによって救いの道が開かれようとしていることの暗示でしょうか。以後のやりとりでは、白鳥の傷によって、パルジファルに気づかせようとするトムリンソン氏の演技がやはり光るものがありました。また、「おいら、わからないよ」と繰り返すフランツ氏の演技の無垢さぶりも素晴らしく、母親を思わせるオケのソロヴァイオリンの響きも美しかったです。こうしたソロの美しさは、パルジファルという作品で特筆すべきものですが、今回、東京フィルのメンバーは、ほぼ一つとして例外なく、心のこもった美しい歌を奏でていたと思います。
クンドリーが「眠りたい」と言って舞台中央の「光の道」の脇の闇に退場すると、第1幕の舞台転換の音楽。聖杯城へのワープ(?)は、パルジファルとグルネマンツがおでこをくっつけることで始まりますが、その後、舞台装置が大きく動きます。右手から、先端がとがった剣の穂先のようなものが回転しながら出てきます。これは上下運動もする上に、上には床と同じようにLEDパネルが備えられていて、様々な色に光るスグレモノ(?)です。これは「メッサー」(ナイフ)と呼ばれていたようですが、この装置のおかげで、舞台の出来事が単調に陥らないものになっており、このようなアイディアは素晴らしいと思いました。
ここでは、そのメッサーが動く一方で、舞台の前では聖堂のアーチを描いた薄い幕が下りてきます。幕とメッサーの間では、舞台のリフトがせり上がる(パネル板だけではなく舞台幅全体)と、そこに何人もの騎士団員が乗っていて、そこから舞台にどんどん降りて行く設定になっていました。すごく複雑な舞台装置です。
やがて、沈んでいたメッサーが、血のような赤色の上に再びアンフォルタスが横たわってせりあがって来ると、左手から非常に高い椅子に座って、頭から白布をかぶったティトゥレルが現れ、息子に「仕事をしているか?」ときつい一言を投げかけます。
アンフォルタスの苦悩の歌。エギルス・シリンス氏は、声量も十分で良いです。ただ、これは私の趣味なのですが、アンフォルタスは、もう少し弱々しいほうがいいような気もしました。何となく元気そうな感じがするので、少し苦悩が伝わりにくいきらいがあります。騎士団が、彼の苦悩に目を向けず、一斉にそっぽを向けるのが印象的。「あわれみを!」と訴える声も無視され、その場にバタンと崩れ落ちると、グルネマンツが、彼の体を再びメッサーの前に引きずっていきます。ここでのグルネマンツは「しょうがない奴だ!」と言うような感じですが、その前の苦悩のアリアの所では、独りアンフォルタスに同情するような感じなので、そこはオーソドックスな感じです。
アンフォルタスが、その前に童子がメッサーの前に安置していたグラールの覆いを自ら取り、赤く光るグラールを皆に向かってかざすと、騎士団は手を高く伸ばして、左右から出てきた数名の童子が持つミニ・グラール(?)を心に受け入れるようにしていきます。
その儀式が済むと、全員、音楽とともに退場していき、取り残されるグルネマンツとパルジファル。この時、グルネマンツが、救いの道の最後方にまで行くのは、アンフォルタスへの同情から、グルネマンツがその道の最も遠くまで行っていることを暗示するのかも知れません。その一方で、前方にいるパルジファルとは、大きな奈落が開いており、この段階ではパルジファルは救いの道には全く切り離されている存在であることが分かります。それにしても、この奈落は、崖と言ってもいいほど深いものなので、歌っているトムリンソン氏も正直怖いのではないかと感じました。(メッサーの動きと言い、全体にデンジャラスな舞台です。演者はその意味でも大変だなと思います。もうビル建設現場という感じでは?台風も来ていますし、スタッフを含め、最終日まで事故がないことを祈念します。)
長い文章となったので、第2幕以降は、次回に続きます。